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    コラム No. 27

    肥えた目 「最近の子供は目が肥えている」。最近朝日新聞のどこかの特集で語られた言葉。語ったのはゲーム業界の方で、何がウケるのか予想が付かないという趣旨だった(確か「学ぶ意欲」という特集だったと思ったんですが、見つけられませんでした)。 でもこの言葉を何度か読み返して、自分の体験も踏まえて考えると、なんとなく違和感があった。そもそも作品は本気で作られているのか、という素朴な疑問がそこにある。ゲームはド素人なのでテレビで考えてみる。 私は1963年生まれ。アニメやプラモの活気のあった時代に育った。余り裕福な家庭ではなかったので、飽きるほどそれらに浸った訳でもなく、その頃の映像には未だにキュンとする。ウルトラマンや仮面ライダーやゴジラなど、その頃のヒーローは未だに心の中では大きな存在だ。子供とテレビを見る時も、平成ウルトラマン3部作なんかは、私の方が真剣に見ていた。 実はここ1年殆どテレビは見ていないのだけれど、少なくとも1年前の状況では、この作品本気で作っているんだろうか、と首をかしげる作品が多々あった。今でもそれなりに人気がある作品でも、戦いの最中に突然「愛」とかいう言葉が唐突に出てきて、それまでの力比べ体力勝負戦がいきなり一見高尚な戦いになったりしたものがあった。それまでのストーリーの流れから見て、余りに場違いな結論。今までは何だったんだ、そんなんで納得できるのかと怒りさえ感じる。一応一緒に見ていたけれど、噴出してしまい、隣で真剣に見ていた子供に悪いので咳でごまかしたりしたものだ。そもそも、キャラクターデザインからして、これって最終稿なのかと疑問に感じるものまである。 もちろんそんな作品ばかりじゃない。平成ウルトラマンは自分と同世代の、昔ウルトラマンに憧れた世代が作ったものに相応しい出来だったし、真剣さがにじみ出ていた。仮面ライダークウガだって、制作スタッフの情熱が画面からほとばしる感があった。所詮怪獣モノだと、ともすると手を抜いてしまうモノに、本当に真剣に取り組んでいる姿が、確かに伝わってきた。ありきたりの答えではない何か、それを考えて台詞にし映像を撮る。見る者に、「こいつら本気でやってる」と思わせる何か。 メフィラス星人やジャミラ、クレージーゴン…目を閉じるまでも無く、当時インパクトがあった話は頭に浮かぶ。それを見て育った同世代が当時の疑問をぶつけてくる。どうしてウルトラマンは1人でなにもかも背負い込んで戦わなければならないのか、人間はただ見ているだけなのか。当時の疑問に最新のCG映像で自分達なりの答えを伝えてくる。奇麗事で何でも済ます大人は卑怯なのか。「でも、奇麗事で済めば一番良いじゃん」とクウガは誰にも真似できない微笑で返す。万人ウケする訳じゃないし、多少空回り的に感じる演出も、荒削りさも感じたけれど、一生懸命なのは伝わってくる。 こんなドラマを見ているとき、我が子達は真剣だ。一所懸命台詞の意味を受け取っている。下の娘などは小1にして、私が選んで見せるビデオでは度々涙を流し、私の手を耐えるようにきつく握る。真剣さは伝わっている。 私はドラマ作りが仕事ではないので分からないことも多いけれど、安直な答えに流されている作品は増えているように感じてならない。同じ答えに至るにしても、怪獣とか荒唐無稽なモノに対する対応にしても、作り手の身を削るような模索を経ているのかはとても大切な要素だ。そしてその苦悩は画面を通じて伝わって行く。 じゃあその子供達の感受性に今と昔の差はあるのだろうか。多分無い。大人が真剣に取り組んでいる姿は、スレ切ってしまっていない限り子供達の心には届いている。今「目が肥えて」いて、見透かされているのは、作り手の安直な逃げの姿勢ではないだろうか。まぁこれ位で良いか、スポンサーの意向もあるしィ、これ以上やってもやんなくてもワカりゃしないよ、このご都合主義の設定でもいいさ。こんな声には私達も昔も今も感じ取れるし、今の子供達もそうだろう。 さてネットである。自分でサイト訪問をしていて惹かれるのは、技術である場合もあるけれど、やはり真剣さじゃないかと思うことが多い。星の数ほどあるサイトには色んなサイトがある。HTML技術的にも、グラフィック技量的にも、全然駄目だと思えても、それでも気になって見に行ってしまうサイトがある。こんなテーマにこんな情熱をかけている。馬鹿にしているのではない。言葉で「馬ッ鹿だよね~」と発したとしても、そうした情熱の矛先を向けられる対象を持っていることに、羨ましさを感じている。「凄い、この人、真剣だ」。それが再度訪問したくなる理由だ。ふとした瞬間、その真剣な未だ見ぬ人が気になる。あのサイトどうしてるかな。だから久々に訪ねて、様々な事情で廃屋になっていたりすると、なんだか気落ちするし、寂しい。誰かの情熱が冷めることが寂しい。もう少し頑張って欲しい、と思ってしまう。 ゲームメーカーが目の肥えた子供達を相手に奮闘するように、サイト開発者もそれ以上に奮起しないと駄目なんだろう。これ位でいいや、これ以上詰めるのはやめよう、これ位で勘弁してよ…。多分そんな言葉は伝達されてしまうのだ。そして、ネットの端っこでまだ見ぬ人が呟く、「あっ、手抜いてる」。 情熱という言葉で全てを語ることはできないだろう。先日自分でこのコラムを読み返して、その青臭さに赤面してしまった。しかし、それでも「人」に惹かれている自分を否定できない。個人サイトであろうと企業サイトであろうと、頑張っている人やチームの姿が、あるいはその影が見えることが魅力に繋がっている。その本人への興味もあるし、その本人に権限委譲している組織にも興味が湧く。そしてそれだけ入れ込んでいる対象物にも自然と興味が高まる。 ウルトラマンの話をもう一つ。平成4作目のコスモス。怪獣との共存という今までに無いテーマに挑んだ意欲作。テーマの掘り下げに物足りなさを感じ、更に最終話直前に主役俳優の誤逮捕のゴタゴタがあって、後味の悪い終わり方をしてしまった作品でもある。そのゴタゴタのさなか、テレビ局は打ち切りを一度は決意する。しかし話の結末を見せろという視聴者の声に押されて、主役俳優の映像を出来る限りカットしたモノを放送した。それを見ながら更に考えさせられた。人類の危機が来て、巨大戦士ウルトラマンが現れて、問題を解決する、というだけではつまらないのだ。苦戦していても、人間が変身するシーンがないだけで、感情移入の度合いが下がる。一人の人間が、もがきながら傷つきながらウルトラマンになって戦うからウルトラシリーズは魅力が溢れるのだと知らされた。結局「人」なんだ。 どんなに堅牢でパフォーマンスの高いシステムをを作り上げても、それは多分便利なだけ。好きとか嫌いとか主観の後押しは少ない。だから、より便利なサイトが出現したら、さっさと移っていける。後ろめたさも無い。それはそのブランドに対する想いが育っていないということだ。人間が変身しないウルトラマンと同じ、ただ便利でありがたい存在。でもそこに知人が居たら、別に本当に会って話せるかどうかは問題ではなくて知っている人、親密感を勝手に抱ける人が居たなら、話は変わってくる。 ネットは中間層を剥ぎ取っていく構造だ。データを手渡しするだけの層を排除して需要と供給の接点を驚くほど接近させる。だから現場は情報発信について多くの権限を持たねば立ち行かなくなる。そしてそれを進めることで、人の姿がネットの端っこの人にも見えてしまう構造を作れる。ハイテク(最新技術)&ハイタッチ(心からのもてなし)。数年前にこの言葉が出たときは、イマイチ手垢まみれで真実味が無かった気がする。でもITバブルも厳しくなってきた今は、原点のように思える。現場に居るのも「人」だし、「肥えた目」で厳しく見てくれるのも「人」である。 以上。/mitsui ps.コスモスは、主演の無実が判明した後、彼が登場する回が全て放映された模様。

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    コラム No. 28

    ER 先日漸く「ER:緊急救命室 VI」を見終えた。シカゴの病院を舞台にした骨太な人間ドラマ。実際には不可能に近いハイレベルな医療技術が主人公達に要求される医療現場において、各人の個性や性(さが)を引きずりながら、自分の出来る限りの努力を尽くす。シリーズ6作目(日本版最新はVII?)。世に充満する不幸や病気に対して、主人公の誰もが革命的に正すために動いている訳ではなく、自分のやれる範囲で精一杯行動し悩む。しかも、主人公達は聖人君主ではない。個性も癖も個人的問題も抱えている。共通するのは、患者を治したいという想いと、簡単には諦めない姿勢。個々人が抱える複数のドラマが一話の枠の中に併走し、見る者に考える暇も与えない構成。 DVDで見たので、日本語で見たり、字幕で見たり、色々な角度からドラマに浸れた。そしてショックを受けた一言にぶつかった。「あなたは病気です」。ERはシリーズが進むにつれて、精神的な病の領域が増えてきている。特に「VI」では、NHKが告知無しに放送を控える程の(しかし見ておかないと話の流れが分からない)話が含まれている。そうした患者に治療を受けるように諭す場面で使われる言葉だ。実は英語では「You need help(あなたは助けが必要です)」という。慣用句であり、深く考えないで使われる言葉だとは思うが、このニュアンスの差に驚いた。 「あなたは病気です」と言われたとき、どこか死亡宣告のような冷たい響きを感じる。「You need help」と言われたとき、そこには「help(支援)」する体制が背後に準備されているイメージを持つ。あなたの必要とする「help」を、私達は充分に提供できます、安心して委ねなさい、というメッセージ。 週末が明けても、「You need help」という言葉が頭から離れない。そして、Webサイトを眺めながら、この言葉が再度浮かんでくる。サイトの構造が全然イケてない。それまでなら「馬鹿じゃないの」と一言で片付けていたのに、「You need help」と呟いてしまう。「駄目」だと烙印を押すだけでは、駄目なんだと気がついた。精神を患う人に自覚症状は無い。自分の状態を正しく判定することは、精神の健全さに依らず難しい問題だ。しかし、何処かに「線」があり、その線を越えた時点で「病気」という領域に入る。それは気付いた人が諭すしかない。それが病気の場合、通常は医者である。ではWebサイトは誰が諭すのだろう。名前にバリエーションはあるが、「Webデザイナ」だろう。 ユーザビリティやアクセシビリティ。漸く日本でも話題になってきている。サイト診断という言葉でくくられる事が多いかとは思うが、アドバイスをするなら、「You need help」的に出していきたいと願う。サイト診断自体についてもいつか触れたいが、今回は作り手や現場を見てみたい。 「help」が必要な状況は、実は作り手の我々の中にも多くある。特定の個人に多く見られる場合もあれば、尊敬する先輩が陥り堕ちていく場合もある。更に、自分自身が陥る場合も充分にある。誰もが自分は大丈夫と言えない症候群を幾つか。 ■「あぁ、そう言うこと?」症候群 誤解に誤解を重ねる症状。出された状況や資料を一見して判断する。そして本当の意味とすり合わせ作業を軽視する。思い込みと実態とが異なると分かったときに発する言葉が名前の由来。しかし、この言葉を口にしながら、実はやはり説明を聞いていなかったりする。自分の理解能力が高いと自己評価している人ほどかかり易く、自覚症状は無い。思い込みと実態との差が無い場合には問題にならないが、単に偶然の上に立つ砂上の楼閣プロジェクトの可能性もある。一部、技術用語の不統一(マスメディア)が遠因という気もしないではない。 ■「とりあえず」症候群 権限者が自分の判断を先伸ばしにするために頻繁に用い、疑問なく使ってしまう言葉が目に見える症状。発注コストという概念と、その「とりあえず」作らされたものにもかかるコストを計算できない能力不足、そして決断できない優柔不断さが有力原因。症例はシステム系にも多々あるが、どちらかというとデザイン系に多いように思われる。デザイン的な方面に限って言えば、語られた画面のイメージを掴むほどサイトを見回っていない経験不足や、その画面が使われる場面や使い手の抱く想いへの想像力不足も大きな原因と見られる。この言葉を発するときに、自分があたかも偉くなったかのような錯覚を覚えてしまうのも、蔓延の原因か。ちなみにエンジニアの世界では、とりあえず作って微調整していく方式は、ある程度チーム人数が増えた段階で「御法度」とされる手法。しっかり設計してしっかり作るのに勝るもの無し。 ■「こんなイメージ、分かります?」症候群 機能的にどのようなモノが必要かはほぼ分かっているのだけれど、「絵」を描くことに躊躇があっていい加減に伝えたがる症状。デザイナが期待しているのは、純粋に「ラフ」であることを理解していない事が発端だと思える。しかし、何ら絵に描かないで何度か設計できたと勘違いしてしまうと、およそ思慮不足な画面「設計」を出してきて、同じ台詞を口にするようになる。きちんと伝えられる形に出来ていないときは、多くの場合実は自分でも整理できていない。また、気配りや勘のいい外注先に当たると、自分で考えることを放棄してしまうことに陥り易い。しかも一旦陥ってしまうと、楽な状況(考えてくれる)から苦しい状況(自分で考える)に戻ることになるので、気の利かん外注だと八つ当たりをする。自分の仕事を見失っている。自己管理の問題か。 ■エクセル症候群 エクセルで資料を作ることだけが目的化している状態。エクセルは優れたソフトだが、どのように見られるかも想定しないでシートが山ほど含まれていたり、一望できないフォーマットにぎっしりと数字が書かれていたり、印刷できないほど横に延々と続くファイルをmail添付で送られてきたら、疑ってもよいだろう。会議の場では、決まって、「ここに書いてありましたよね」と書いた人でないと気がつくはずの無い部分を、さも完全犯罪を阻む証拠のように振りかざす。長大なエクセルを読む時間が惜しいと思う現場への配慮も無い。表形式のそもそものメリットは、問題点や長所などが一目で俯瞰(ふかん)できる情報表示方法であることが理解できていない状態とも言える。この場合エクセルは、事実上「見やすい」ために使われるのではなく、「書きやすい」から使われている。そして、情報はたいてい「見にくい(醜い)」状態で配布される。 ■自分のタスクだけしか見ない症候群 会議の場や現場で、割り振られた自分のタスクの消化率しか頭にない状態。Webシステムが有機的な繋がりでサービスを提供するものである以上、1箇所だけがどんどんと進んでいく状況は考えにくい。初めから突出した先行型を設計していない限り、システム構築の全工程が螺旋状に少しずつベクトルを変えながら上がっていくのが常であろう。さっさと自分だけアガッてしまおうという姿勢はチームワークにも影響する。部分的に完了したために、そこへの再度の修正コストを考えて、更なるステップを思いとどまることもある。また、回りも見ながら先行している本当の優秀タスクとの見分けは現場に居ないと困難。 ■手ぶらで会議症候群 会議に出るのに何も資料を用意しない、会議の場で一言も発しない、自分は評価や判断をする人間であるという宣言にも似た態度、が特徴。会議は意見を交わす場であり、決定を下す場所である。意見を交わすためにはそれなりの準備を何人(なんぴと)たりとも怠ることはできず、決定を下すには烏合の衆よりも少数精鋭である方が効率が良い。語る人間の数倍腕組しているだけの人に囲まれて会議をする場合が時々あるが、さすがに各人の時給計算をしたくなる。往々にして、総額は自分への発注金額より高そうな雰囲気を感じる。この辺りは個々人の改善というよりは、組織的にその大いなる無駄に気がつかない限り改善は難しいと思われる。数年前に会議の長時間化を阻むために座らないで立って行うというアイデア(本)が出されたが、一案かもしれない。現場としては常にヘトヘトなので座りたいが、そうした「令」がでるということは問題意識があるということで、改善の可能性もありそう。 ■資料作らせたい症候群 性悪説に立つならば、不幸な者や苦労している者を眺めていたいという人間の性(さが)に由来する。或いは、そのための作業コストを計算できない能力不足。自分が、時間的にも量的にも質的にも、見れない程の資料を要求する。官の世界で受注額とキングジムの厚さとが比例しているというマコトシヤカな噂から出ている可能性もある。短工期高品質開発のための優先順位がまだ見えてこない過渡期の症状であることを願っている。但し、ドキュメントに関してはエンジニア系の方が進んでいて、良いツールは出てきてはいる。しかし、まだ決定打には至っていない模様。根絶には長期的視野が必要だろう。注意が要るのは、必要な資料は存在するという点。必要な資料を必要なだけ作成し易い環境、作られた資料が閲覧しやすい環境が必要。資料無しで引継ぎされたサイトには、頭を抱えるしかない。 ■「最初から直すべきだと思っていたんだよ」症候群 プロジェクトの背後から襲ってくるような言葉を平気で言える状態。苦労してリリース直前にボスから言われようものなら、会社を去ることを本気で考える言葉。しかし、本人に罪悪感はないらしい。自分は気が付いていたという自慢げな態度を示せることがその自己満足の原因かもしれない。気が付いていて言わないのはチームの一員ではない。つまずくと分かっている石ころを忠告するのがチームメイトである。この難しさはカリスマが先導していて、本当に気が付いていたのに言えない雰囲気がある場合。共に作り上げていくというモラルの形成がキーだろう。 ERで「あなたは病気だ」と言われて、「はいそうですか」と答える人は今のところ出ていない。Webサイト開発の現場で見られる症例も、注意したところで、自覚して自ら改善に励む人も出てこないだろう。でも、「You need help」と言って、一緒に改善に取り組むならば道は開けるかもしれない。慈善事業じゃないんだし、そんなことやっていられないと思うだろう。けれど、それは自分の優先順位の問題かもしれない。サイト開発か自分のプライドか。 それにしても個々人の能力向上も大切だが、組織としてのベクトルや、まとまりが今後ますます重要になってくる気がしている。 以上。/mitsui”I need help”

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    コラム No. 29

    プレゼン プレゼンをする機会が増えてきた。少し前まではPowerPointで資料を作成していたが、最近は意図的に止めてしまった。最近はswf(Flash)のみに近い。 何が嬉しくて、PowerPointから離れるのか。プレゼン時の軽快さと拡大表示機能。そして配布時のソースを渡さない気軽さとファイルサイズ。プレゼン後のオンライン化の容易さ。そして表現力。この4点。 例えば、Ridualで作成したサイトマップをSVGとして出力する。それをIllustratorで開く、図を選択してコピーして、Flashに貼り付ける。それだけでかなり奥まで拡大表示が可能なプレゼン資料が出来上がる。しかも軽い。勿論ベクトル画像である。会場で、全体像を見せた後、右クリックで拡大/全てを表示と切り替えながら要点を説明できる。更に、Flashのパッケージを持っていれば全画面表示が可能なFlashPlayerがついているので、全画面でプレゼンしたり、Ridualのデモをやりながら横にこのswfファイルを表示しておいて、ホワイトボード的な説明ツールにも使える。 私のFlashプレゼン資料の作り方は大きく分けて2つある。1つは本家Flashで作成する方法。もう一つはIllustratorで作成する方法。 1) Flashで作成する方法: 基本的に「シーン」をページ(項目)として作成する。画面の右下に4つのマークを置き、それをボタンとして、次/前のフレーム、次/前のシーンへの4つの方向にマウスクリックとキー操作(←↑↓→)で進めるようにしておく。このActionScriptが少し面倒かもしれないが、一度作ってしまうとあとは流用なので苦労が無い。シーンの順番もいつでも入れ替えられるし結構楽。 2) Illustratorで作成する方法: Illustratorだけで作るのではないが、これはIllustrator使いには楽な方法だと思う。まず、Illustratorで、レイヤーをページと思って作画する。何レイヤーあっても構わない。それを保存する際に、全レイヤーを表示してから、書き出し/swfファイルとして/レイヤーをswfファイルに、とする。9レイヤーを書き出すと、「(aiファイル名)_L(連番:1~9).swf」という9個のファイルが作成される(10レイヤー以上のときは、*_L01.swf…となる)。あとはこの素材をloadMovieでまとめる。Flashで画面上にボタンを配置し、押されるとキャンバス上に配置した画面に、先ほどのswfを表示するようにする。作り込んでいるように感じるが、Illustratorから出されるのが決まったファイル名なので、これも一度flaファイルを作っておくと使い回しが効く。 swfで拡大表示が可能なことを利用すれば、レイヤーを止めてしまうこともできる。広めの画面に場所を区切って情報を配置する。右上が表紙で、その横が目次、とか。そしてその1枚絵をswfにして、プレゼン中に右クリックで拡大し、手のひらツールで移動する。OHPで原稿をずらしていた時代を思い出すが、これも結構オツ。 Illustratorにこだわるのは1点だけ。正確な位置に正確な線幅でオブジェクトが置きたいから。1ピクセルにもこだわりたい。Flashではキャンバスの表示比率によって、線幅も変われば、微調整もイラつく。LiveMotionやFreehandも考えたけれど、手が馴染まなかった。 プレゼン準備には結構時間をかける。社内会議の場でも、配布資料を後で見てくれるとは思っていないからだ。その場でキーとなることは頭に入れて欲しい。そのためにできる限り努力する。だから映像的インパクトは大切にしたい。だらだら文字を書かないし、説明中に一目見て下を向かれても嫌なので、画面を見て説明を聞かないと分からないように工夫する。 何度か大きめのプレゼンを経験してきたが、後で読んで分かる資料を作成すること自体には賛成だが、プレゼンの場でそれ配るのには疑問を持つ。説明の旨さに依存するところが難しいところだけれど、与えられた時間で惹きつけられなかったら、そのプレゼンは失敗に近いのだと思う。その場で資料を読んで欲しくない。聞いて欲しい。積読(つんどく)状態の資料から、後日連絡が来るような経験は殆ど無い。 DECでは資料作成等も含めてほぼ全てのツールが自前で用意されていた。全世界に14万人以上に繋がっている世界ではあったが、今のPC時代から見るとかなり閉じた世界だった。だからDECを辞めて入った会社では全てのツールが私には新しかった。PowerPointもその一つ。効果的なプレゼンが簡単に作れて感動もした。同時に驚かされたのが、配布資料にもなるという点。プレゼン時に見るものと、後でじっくり読むものとが同じであった。しかも、会社同士で正式に渡す資料も24ポイント以上の文字で書かれたpptファイルであったりした。 PowerPointは、優れたツールだと思う。しかし不幸なツールだと思う。誰のPCにも無くてはならないツールとして位置付けられておきながら、その有効な使い方が伝授されてきていない。特に最近の展示会では沈みたくなる溜息が出る映像が多い。私はデザインを専門に学んできたわけではないが、背景の枠線をはみ出して文字を山ほど詰め込んだり、明らかに場違いな色使いをする映像に対して嫌悪感を持つ。人に伝えるためにプレゼンするんだから、そのための最低限のデザインルールは意識すべきだ。でもそれを誰も教えてこなかった、先輩も、ベンダーも。だから、「僕は絵は分からないんだよね」と平気な顔で、Webに落ちている絵をそこら中に貼り付けたプレゼンがまかり通る。PowerPoint君自身ももっと綺麗に使って貰いたがっているだろう。 学ぶこと、知識を得ることの大切さを思い知る。ツール開発よりも、こうした使う側の姿勢制御のほうが余程大変なのだろう。ツールの操作の問題ではない。使う側の心の問題に近い。 先日あるイントラのリニューアルに関わった。改良点を示し、改良後の画面遷移とワークフローをシュミレーションして見せた。自分ではまぁまぁの出来のプレゼンかと思っていた。それが自惚れだと自覚できたのは、実装が少し進んである程度作業が体感できるレベルになってからだった。作業効率アップをリニューアルの目的にしていたのだが、私の読みよりも効率が良かった。私も少し驚いたが、権限者はかなり驚いていた。その驚く様を見て、私が伝えきれていなかったを実感した。今回の開発でこうなるんですよ、と私は再三説明してきたつもりだ。けれど伝わっていなかったのだ。 エンジニア系の権限者に、完成後の「幻(Vision)」を見せること、それも私の仕事だ。それだけではないにしろ、その比重は大きい。データの流れしか見ようとしない者に、ユーザビリティとか使い勝手に関する数値化しにくい効率の部分を見せれてこそ、そのチームは活性化した状態で開発に向き合える。 使い勝手の悪いツールやWebを見ながら、デザイナを幸せにできないエンジニアは二流だと思い続けている。しかし、エンジニアを幸せにできないデザイナも二流なのだろう。反省&精進。 「No Design, No Business」、日経デザインのキャッチコピー。その通り。更に、「No Vision, No Business」かもしれない。沈滞している暇は無い。 以上。/mitsui

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    コラム No. 30

    継承 現在小三の娘をもつ身として、かなり先の心配をしている。何十年後かにいきなり会って欲しいと言われ、見知らぬ男性と席と共にする日のことである。さほど人に対して先入観も持たない方だし、常時一緒に居ないのであればたいていの人とは、まぁ上手くやっていけるだろうとは思っている。しかし、毎朝通勤の度に目にする最近の中高生あたりの感覚には、少し頭を抱えたくなる。そもそも何故どこにでも座れるのだ? なんだか話をすることすら、同じテーブルで同じテーマで少しの時間に語ることが出来ないかもしれないという恐れがある。そんな相手を娘が選んでしまったら。ベタベタの家族観は持っていないので、それはそれで何とかなるだろうが、少し怖い。いや大分怖い。 もちろんパートナー選びは娘の自由である。我家は相手を選ぶようなお家柄でもない。本人の自由意志と一緒にやっていくという決意が一番大切。下された決定に対して余程のことがない限り多分反対はしない。でも、今から出来ることがある。それは価値観を継承させること。 自分の親はどんな価値観を持っていて、何に対してハッピーで、何に対して怒りを覚え、何に感動するのかを知ってもらうこと。可能ならば、それに共感して同調できること。人種も肌の色も第一の問題ではない。彼女が自分の家庭の中で何を大切にしていくかの種を蒔いておきたい。その種蒔きに成功したと思えるなら、彼女のパートナー選びに心配はない。その選定に自分が関わっているのも同じだからだ。 価値観の継承は難しい。押し付けることは事実上不可能だ。受け手が心から受け入れない限り、見た目はともかくとして、継承されたことにはならない。短期間で結果が分かるものでもない。長い間の関係の中でじわじわと浸透するものだし、何かの拍子に片鱗を見るかのように確かめることが出来る種類のものだ。そして、出来ることは、多分コミュニケーションしかない。お互い忙しいので、余り時間を取れないが、可能な限り色々と話をするように意識している。そして娘にも会話ある家庭を築いて欲しいので、妻とも話す時間を持つ。子供達は両親が話し込むのをかなりの頻度で体験している。 娘と話していて、自分の小三時代を忘れてしまって、そんなことまで考えているのかと思わされることもある。同じ感覚を共有できて、言葉に出来ない感動を覚えることもある。通じ合っていると実感出来るときの喜びは、仕事の成功時の感動の更に内側を震わせるような感覚を持つ。 先日の冬休み、子供達と映画に行った。スクリーンで見るのは何十年ぶりかというゴジラ。しかし娘の狙いは併映のハム太郎。同じ映画館でやっているハリウッド物のほうが良いなぁと半ば思いつつゴジラのチケットを買う。ハム太郎はモーニング娘系の華やかな女の子が隠れた主役、ゴジラはメカゴジラを操る黙々と自己鍛錬を怠らない女性が主役。後者に華やかさは無く、努力や汗の匂いがプンプンする。久々に大画面で見るゴジラは予想を超える出来で感動した。見終わった後、娘は後者を「格好よい」と涙を拭いた。このまま行くと、多分渋谷でガングロという流れにはなりそうにない。安堵感と共に、何かを継承できていることを実感する。何を「格好よい」とするかという価値観。 会社でサイト設計をしている間も、実は継承は行われている。グラフィックデザイナに依頼をするとき、相手の力量を考えながら、出来上がりのテイストを考えてお願いする。それらを考えるとき、相手の価値観をかなり受け継いでいる。依頼されたデザイナも、こちらの言葉の裏を読んでいる。以前作った時の反応や、時々話す言葉から、こんなのが好きなのではないかと推測している。お願いしたものが出来上がってきたとき、やっぱりこう来たかと思うときもある。逆に、やっぱり喜んでもらえました、と読まれている時もある。そうした価値観の共有は信頼感に繋がり、安心して仕事を続けていけれる根となる。 以前、凄い部長と遭遇した。人当たりの柔らかい、バリバリの先導型ではない方。その人の下にいた時、かなり火の付いた製品開発をした。3ヶ月ほど土日なし残業200時間強。ただただコードを生産しないと間に合わない状態。その製品のヘルプの翻訳のタスクだけが宙に浮いて取り残された。プロジェクトの進捗を報告した後、約300項目のヘルプの翻訳を、「それ、僕がやりましょう」と部長が静かに言った。その時背中に走った戦慄に近い感覚を今でも忘れられない。数日後受け取った翻訳されたファイルは、そのプロジェクトの定礎の石となった。部長がヘルプを翻訳したプロジェクトに泥を塗る訳にはいかない、誰も言葉にはしなかったけれどそんな雰囲気があった。部長は行き先を指し示すだけの役目と思い込んでいた私に、部長もそのプロジェクトの一員であるという事実は衝撃的だった。立っているものは部長でも使え、その部長はそう教えてくれた。当時3年目のペーペーの私にだ。 上役のこうした言動は継承される。この部長の部隊は堅牢だった。誰もがやる気に満ちていた。自分が助けてもらったことを、次世代に返していくという暗黙のルールがそこにあった。正しいものが継承されている組織は居て心地よく、そして強い。 私は転職組なので、色々な組織を見てきている。どこでも上司のカラーは部下に多かれ少なかれ継承されていく。重荷を負わない上司の部隊は、誰かに仕事を投げることに長けてくる。情報収集を怠る上司の部隊は、情報が読みやすい形で配布されるまで探しもしない。毎回長大なドキュメントを部下に要求する上司の下では、同じように長大なドキュメントを外注会社に要求する。打合せの雰囲気だけを重視する上司の下では、何が決まったのか分からないような会議をやりたがる。数値管理を過度に進める上司の下では、人を見ないでエクセルだけを見る部下が権限を持つ。失敗をネチネチいたぶる部隊はチャレンジをしなくなる。デザインを軽視する上司の下では、デザイン変更が繰り返される。HTMLに適度にこだわる上司の下では、デザイナ自身が美しいコードを意識する。ネットを通じたコミュニケーションを楽しむ上司が率いると、より楽しいアイデアや仕掛けがチーム内に芽を出してくる。 先日来期の年俸交渉を行った。年次が上がってくると、自分の給与の何割かはこうした継承への責任なんだろうと思えてきた。読む度に、決して今からでも遅くないと信じようと思う文書を、最後に。 批判ばかりで受けて育った子は、非難ばかりします。 敵意にみちた中で育った子は、だれとでも戦います。 ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります。 ねたみを受けて育った子は、     いつも悪いことをしているような気持ちになります。   心が寛大な人の中で育った子は、がまん強くなります。 はげましを受けて育った子は、自信を持ちます。 ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。 公明正大な中で育った子は、正義心を持ちます。 思いやりのある中で育った子は、信仰心を持ちます。 人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事にします。 仲間の愛の中で育った子は、世界に愛をみつけます。 吉永宏氏訳 アメリカインディアンの教えより ref) アメリカインディアンの教え    詩:ドロシー・ロー・ノルト/ニッポン放送/加藤諦三     http://www.atc.ne.jp/seikindo/fusigi/americanindie.htm ref) 札幌太田病院(いじめの話も興味深い)     http://www.sapporo-ohta.or.jp/ohta/S/S-4.htm ref) こっちの訳もいい     http://www2s.biglobe.ne.jp/~KANEMO/indian.html 以上。/mitsui

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    カラム

    No.30 継承– mitsui 02/28-19:02 No.29 プレゼン– mitsui 02/21-18:09 No.28 ER– mitsui 02/13-17:52 No.27 肥えた目– mitsui 02/07-19:46 No.26 モノ:CLIEというデバイスと情報の形– mitsui 01/30-21:21 No.25 道– mitsui 01/24-00:37 No.24 圧倒的品質– mitsui 01/16-13:04 No.23 悪夢– mitsui 12/27-13:17 No.22 キャリアパス– mitsui 12/19-11:10 No.21 情報の蓄積– mitsui 12/11-19:15

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    コラム No. 11

    デザイナとエンジニア 2001年8月、シアトルで行われた「Web Design World 2001」に、幸運にも参加できた。デザイン系のセッションの中に、余りにも異質なセッションが混じっていた。「XML’s Successes and Failures(XMLの成功と失敗)」、講演者はXMLの生みの親の一人、Tim Bray氏。 エンジニアのカンファレンスで、色彩等のデザインの根本のセッションを持ったり、情報デザインに関するそれなりの識者を呼んで学ぼうとするものを、私は今まで知らない(私が知らないだけという可能性は高いが)。しかしデザイナの貪欲な知識欲はこんなセッションを実現させた。ここで話されたのはXMLの基礎ではない、XMLを産み育てた人間が、何を成功と思い、何を失敗と思っているかという個人的な想いが話されたのだ。XMLについては書籍が既に多く出版されていた。それを皆で学ぶのでは足りない。最高峰を呼んで、その触覚に触れようとする狡猾さが感じられた。学ぶという意思も。 考えると、マルチメディアスクールなるモノが世に出た当時から、デザイナの貪欲さはそうだった。1996年辺りで既に、PhotoshopやMacintoshを学ぶというレベルですら、その先に目指していたものはシリコングラフィックス社(現SGI)のワークステーションだったりした。Macintoshの操作法を覚えながら、UNIXも学ぶ。無謀とも思えることを、多くの者が当り前のように挑んで行った。 その多くの無謀なる開拓者から、Javaスクリプト描き(書き?)やCGIエンジニアも生まれてきた。Flash等の分野では、もはやエンジニアとデザイナの区別は無いのかもしれない。そんな呼称に拘っているのは、今のポジションから追い落とされそうな旧世代だけなのかもしれないとすら思ってしまう。 エンジニアも勿論負けてはいない。様々なプログラミング言語や開発環境や概念が生まれ発展している。けれど、と思ってしまう。COBOLエンジニアがJavaエンジニアになるのは確かに非常な努力が必要だ。しかし、Photoshop使いがCGIエンジニアになるのと比べたらどうだろう。絵を主にしてきた者が、コードや文字主体の世界に移っていく力は如何ほどだろう。 このカンファレンスにエンジニアの立場から参加した友人がいた。幾つかの比較的エンジニア寄りのセッションに参加した彼は言った、「デザイナって、当り前のことを、当り前にやるってのを学びに来るんだ」。情報デザインから各論まで、順序だてて進めていくことの重要性とともにワークフローにも焦点が向けられたカンファレンスだったので、余計にそう思えたのであろう。しかし、聞いた途端にふきだしてしまった。エンジニアが「当り前のことを当り前にできない」という点をどれほど問題にしてきて、どれだけの労力をその是正に向けて進んでいるのか、知らない訳ではあるまい。彼のデザイナを見下した言い方にカチンと来たのも事実だが、「エンジニアもじゃないか」と即座に答えてしまった。 世に書籍は多々あれど、デザイナ向けの情報整理学の本と、エンジニア向けの情報整理学の本とどれ位の比率で存在するのだろうか。絵筆の持ち方は、プログラムコードの書法にあたるかもしれない。イメージの全体像から仔細に向かう捉え方は、プログラムのモジュール分け概念にあたるかもしれない。そんなモノまで含めたらどうなるのだろう。エンジニアは、綺麗なコードで正しく動くという、「当り前のこと」を達成するために、間違いなく膨大な知識とエネルギーを費やしている。 私は、最初の職種がエンジニアなので、デザイナがエンジニアを卑下してもムッと来てしまうのだが、正直言ってそういう場面は少ない。デザイナからは、エンジニアが分からず屋であることへの不満であることの方が多い。でもそれはデザイナ間でも起こる事だ。エンジニアがデザイナを悪く言うとき、どこか、見下すようなニュアンスを含む。「おまえ達には分からない深遠な事柄があるのだよ、黙って絵を仕上げなさい」。 エンジニアは機能を動かすことに熱中している。インターフェースは単なるその機能への入り口と考えている。エンジニアは基本的には複数人で動くのでスケジュールの共有感覚が強い。先を見越して動かなければならない。稼働日まで、或いはその後のメンテナンスについての思慮が頭の中に溢れている。では、デザイナどうか。デザイナは稼働日以降のことを見つめているのだ。その機能がどう使われるのか。 エンジニアとデザイナの話をする時に、私は1つのボタンの絵を使う。ボタンは、押されてから起動する「動き」がある。しかし、その「動き」は、押されなければ動けない。エンジニアはその動きを設計し、デザイナは押される行為を設計する。二人が補完し合って、そこにそのボタンがあることの存在意義が生まれる。そうした両面が必要とされる業務は多いだろうが、特にWebはこれらを短期間に仕上げる必要がある。だからこそ強力な補完関係が必要な分野なのだ。 羨ましいような関係を築いている組織がある。職種はもはや単なる初対面の人の先入観を利用するためだけにある。デザイナと思って話してくれた方が分かりやすいか、エンジニアと思ってくれた方が楽か。やることに差は無い。動けばいい、美しければ良いなんて思っている人は、そこには誰もいない。機能は使われてこそ。使われるようにデザインすべきもの。皆がそんな風に考えながら進む。そこで働く人達だけでなく、そこの「作品」のエンドユーザの幸せをも羨ましく思う。 そんな風に考えたら、コトは職種の問題ではなく、未熟か成熟かの問題なのかもしれない。自分達の仕事の範囲を、時間的に、業務的にどこまで見越して考えているのか。そうした考慮の上でどこまで人材を有効活用しているのか。 優れたエンジニアは、自分が考え得るモノよりも「もっと良い方法」がある可能性を信じている。だから聞く。どんな意見だって聞く、ただし短時間で。その上で吟味する。優れたデザイナはあらゆる可能性を想定する。その選択肢を拡大方向に維持するために、常にアンテナを可能な限り広げる。恐らく、超一流のところでは、デザイナもエンジニアも変わりがないのだろう。 時々、サイト開発はバレエのようなモノかと思うことがある。イメージしているのは、映画「愛と哀しみのボレロ」のラストシーンのようなバレエ。超一流の踊り手が自分の最高のパフォーマンスを演じつつ、全体としての調和がある。観客席の正面から見ても横から見ても共通の流れが見える。しかし、個性が埋没しているわけでもなく、個々のダンサーの表情も光ってる。隣の人間の動きに注文をつける余力など誰にも無い。ただただ全力を尽くすだけ。 エンジニアとデザイナが、こんなコラボレーションが出来たなら。互いをリスペクトできる様に全力を出せたなら。必要以上の壁を作らずに競え合えたなら。 既に、双方から混血もニュータイプ(新世代)も生まれている。異質なものの集合体の方が、純血の集合体よりも強いことは様々に証明されている。開発者にとっては、Webはそんな実験場なのかもしれない。 以上。/mitsui ref) ・Web Design World : ThunderLizardが主催するカンファレンス。2002/11/18-21にBostonでも。 http://www.webdesignworld.com/

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    コラム No. 12

    会議 はるか昔、神からの使命を受けて、誰とも相談せずに世界最大のプロジェクトに挑んだ男がいた。巨大な箱舟を丘に建造し、世界中の動物達を載せ、豪雨を乗り越えた。「ノアの箱舟」のノア。 そのノアについて、クリスチャン雑誌「clay(クレイ)」にこんな文書が載っていた、「ノアが箱舟建設委員会を設けていたら、きっと箱舟は完成しなかったろう」。 Web開発関係者で、これを読んでふき出す人は多いと思う。現場に近いほど共感できる感覚かもしれない。サイト開発には多くの、とても多くの会議が必要とされる。そして、その議場で、時間が非常に有意義に進むと感じる現場担当者は少ないと思うのは、私の思い込みだろうか。議論をすればするだけ選択肢は生まれる。どれにするかが問題ではなく、どれかに決めること自体が問題とされる場であることも多い。しかし、民主的にとかコンセンサス等の言葉によって、決断がズルズルと延ばされる。 御厨さと美氏の作品の中でこんな台詞がある、「君が合議的な場を作って物事を進めたがる理由を言ってやろうか? 実戦経験の無さから自分の指揮能力に自信を欠いているからだ(ルサルカは還らない/Vol.2)」。即断できない同僚(形式上は上司)に対する台詞だったが、無意味な会議にイライラしていた私には、「そういうことだったのか」と眼から鱗のショックだった。それ以来、やたらと会議の場を作りたがる者に、怒りではなく、可哀想にと思うようになれた。 いつまでも交差点に立ち止まり迷っている訳にはいかない。どこかで決断が必要だ。そしてそうした決断は、経験が必要だ。Webはそうした練習にもってこいだと思える。そもそもWebは作って「お終い」ということはまずあり得ない。常に作り続けなければならないモノだろう。だから一度や二度の失敗は合って良いのだと思う。サイト管理者自身も育たなくてはいけないのだから。 自分の目で確かめた訳ではないが、amazon.com はある時期ユーザによって見える(見せる)サイトを変えていたそうだ。どういったデザインが良いのかを実地検証していた。最終的には(エンド)ユーザに聞けという鉄則を実際に行った訳だ。会社規模と知名度を考えると、そのフットワークの軽さに拍手を送りたくなる。先日の9.11に喪に服した yahoo.com サイト等にもサイト運営者自身の意思と開発とが直結しているのが見えて、感動的だった。こんなことができるのは、セミナー等机上の知識からではない。自ら決断して、自ら確認する、そういった指揮能力の向上と共に培われた感覚なのだと思う。 別に海外だけが優れていたわけではない。例えば、リクルート。3日間徹夜で3~4人で作られたサイトの話。しかも静的サイトではない住宅情報の検索サイト(1997年頃)。アイデアを出してその場で試作、その場で試して試行錯誤して、完成させる。デザイン感覚からスクリプト、動作保証検証のセンスまで一流の者が集まる必要があるが、それが実現されていた。そのスキルにも驚くが、そうした権限を与えてしまう組織にも息を呑む。「任せた」の一言なのか。これで燃えなきゃ嘘だろう。セミナーで講演したその開発者の眼は、当時誰よりも輝いているように見えた。羨ましかった。 誰にでも実現できるものとそうでないものがある。上述のような環境は与えられ様がなかった。だから自分達だけでできることを探した。会議はできるだけ短くする。ガンクビ揃えて決めるべき事項か考えて各人が動く。疑問が湧けば、その時に責任者を掴まえて解決する。基本的に「却下」と「了解」の即断即決で対応する。そして、昨日の結論と矛盾しても謝れる間柄も作る。信頼する。信頼される。不必要なドキュメントは作らせない。必要かどうかは、まず処理できるかで判断する。一週間後の会議までにその担当者が読んで処理することが現実的なのかどうか。積読されて、会議の場で数秒で斜め読みされるのが分かっていたら省く。熱意で説得可能だと思えたら先行して作って、自分達の意志高揚も図る。 もちろん会議自体が敵なのではない。そこに潜む何かが敵なのだと思う。それは、時に責任回避を目的とし、時に何人を率いているかという自己満足を目的にしたりする。サイト開発のリーダは、その進捗を妨げるモノを可能な限り排除すべきだ。リーダになる人は、そういった仕組みを見つめ直し、自分も含めて開発活性化を阻むモノが何かを見極めねばならない。 世界を救う使命がノアだけに降ったように、担当するサイトを「救う」使命は大きな人数には示されないように思う。聖書はあっさりと書いてあるが、苦しいこともあった筈だ。だが、少数精鋭で短期間。ノアは大洪水の後に「約束の虹」を見る。Webサイト開発のヒントがここにもある気がする。 以上。/mitsui ref: 日本聖書協会(ノアの話は創世記6~9章) http://www.bible.or.jp/main.html クレイ http://www.harvesttime.tv/ http://www.harvesttime.tv/Products/Clay/Clay.htm 御厨さと美 mangaseek

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    コラム No. 13

    オフィス環境/ワークスペース 自宅から車で30分圏内にズーラシアという広大な動物園がある。敷地面積約53.3(現在は28.9)ヘクタール、展示動物約60種500点。日本最大級の動物園。 動物園の情報をこまめに見ている訳ではなくても、最近の動物園は昔と少し違うことには気が付く。昔の動物園は、絵に書いたような檻の中に動物が寂しくたたずむというイメージ。地面はセメントで、いかにもゴミは洗い流しやすそうだが、当の動物にはアカギレが痛そうなもの。ところがここは違う、たぶんここだけでなく新し目の動物園は変わってきているようだ。それは、目的が変化して来ているからだろう。ズーラシアは明記している、「種の保存を行っていくことを目的の1つ」にしていると。 「展示動物○点」という言い方に少し戸惑いはあるが、動物がただ見られれば良いという発想から、活き活きと「居る」状態にする方向に向いている。そして、それは希少動物だけに限らず。陳列されていれば良い訳ではない、その動物らしさが必要だし、それが見たいし、見せたい。その為には人間が見えない死角も用意するし、首だけ突っ込んで見るようなドームも用意する。 動物でさえこうなのだ。ましてや人間をや。正しいデザインができる人間は、かなり希少な存在だ。そうした種は積極的に何かしなければ絶滅するかもしれない。そうした能力には、発揮するのに相応しい環境というものがあるのかもしれない。 私はいわゆるデザイナ風のオフィスで仕事をしたことがない。どの会社でも決まりきった形の面白みのない机と椅子が与えられる。そして、一定期間ごとにモラルとか風紀とかいう名で、一流のデザイナは一流のビジネスマンでないといけない、とルールが強化される。問題を物質的オフィス環境だけでなく、その空気にまで広げて、「ワークスペース」と呼ぶが、何かが違うと思っている。 Web Designing 8月号で、「Webデザイナーのワークスペース」の特集をしていた。目を引いたのが京都西陣町家スタジオ。古い商家に伝統とハイテクとを融合させようとする試み。和室も良いけれど、庭も良い。あんな環境の中に置かれたら、どんな発想が出てくるのだろう。色々と想像しながら写真を見つめた。いわゆる刺激が欲しくて渋谷等へ集まる傾向もある。好き嫌いに関わらず最近のスピード感あふれるFlashサイトなんかは、やはりどこか疾走感のある街で作るべきものかもしれない。やはり環境の意味は大きいだろう。 ネットバブル時代は豪勢なデザインオフィスを色々な雑誌で見かけたが、最近は余り見なくなった。「贅沢だ」という風潮もあるように思う。でも、備えている天分やタレントを活かし切らずに、デザイナを囲うのはもっと「贅沢」で、勿体無い。 私は職場の席が嫌いだ。特にこのRidualの仕事をし始めてから、自宅のほうが余程効率が良いことを実感している。悶々と考える作業には私の会社の席は余りに、思考が中断させられる要素が多い。勿論それに助けられる時もあるし、相談相手が必要な時もある。しかし、自宅のほうが私には合う。会社に行く理由は、行かねばならないからであり、プリンタとネットと会議室が揃っているからだけである。 根本的に、Webに生き甲斐を感じているものは、働きたいんだと思う。家庭も省みず情報発信してきた者も多い。四六時中、当のクライアント以上に、そのサイトのことばかり考えている知人はゴロゴロしている。もしも快適な空間が与えられたなら、もっともっと働く用意があるのではないだろうか。会社に行くのではない、働きに行く。そんな環境が欲しい。 米国のエンジニア部隊に混ぜてもらったとき、そこでは一人に与えられているブースは四畳半以上。体育館のようなオフィスにそんなブースが、上から見ると蜂の巣のように並んでいる。その中は完全にその住人の個人部屋。3メートルを超える風船人形が飾られるブースから、小さな人形の山にキーボードが隠れてしまうようブースまで様々だった(勿論ちょっとしたアクセサリが大勢で過激なのは少数派)。さすがに女性ヌードポスターはない。それには、男性ヌードポスターで応戦した女性が居たためという逸話も聞かされた。正当な理由で幾人かでも嫌悪感を持つモノは避ける。だからタバコも全面禁止。しかも日本のように深夜になるとこっそり吸うようなこともない。集中できる快適さ。隣人と折合いがつき、その人が一番パフォーマンスを発揮できる環境は、最終的には会社のためなんじゃないかと思う。 ガンダムに囲まれてパフォーマンス上げる者も入るだろうし、すっきり整理整頓の中でバリバリに頑張れる者もいるだろう。その差は、ビジネスマンらしいかの差ではなく、個性の差の話なんじゃないだろうか。そして、「へぇー、ガンダムに囲まれている方がはかどるんだ..」なんて相手を容認していくことは、デザインの幅を広げることにも無縁じゃない。 Webの環境は、見る側の環境も劇的に変わっている。パソコンだけを考えていればよかった時代は遥か彼方だ。自分達が作ったページがどんな環境で見られているのか見極められるものなのかすら怪しい。開発環境の変化も劇的だ。かつてこんなスピードで技術が投入され過去への互換性も無視して大衆に広まっているものってあるんだろうか。まさにドッグイヤー。なのに、作る側の働く「環境」は昔ながらだ。誤解も恐れずに想像すると、これは管理者側の怠慢だ。 プログラム開発では、機能などによって分けたモジュール(部品)を最終的な実行可能な状態に束ねることを「ビルド」と呼ぶ。いかにモジュールの性能が良くても、ビルド時に正しくそれを束ねず、古いものを束ねてしまったら、最終成果物は意図しないものになる。だからエンジニアは履歴管理等を基本とするし、ビルド環境は真っ先に整える。今、Webの世界での個々人の働きはまさにこのモジュールだ。個々のモジュールがいかに良くても、最終成果物を出すビルド時に問題があれば悲しい結果が待っている。オフィス環境やそれを含めた社風やモラルは、このビルド環境にあたる。 動物ですら、定型の檻に入れて悦に入る時代は終わろうとしている。人間もそろそろ個性に合わせたワークスタイルで勝負する、勝負させる時代になってきても良いだろう。 ちなみに、Ridualはリモート開発で行った。横浜市内に二カ所と高知、計三ヶ所。全員が顔を合わせたことは数回。それぞれが自分の意志で決めたオフィス環境ではないが、自分のワガママが一番言いやすい環境だとは言える。原則週一回、開発リーダーとだけ顔を合わせる。しかしそれ以外はmailのみ。私が電話嫌いなので電話も殆どしない。意思の疎通が完全であったかというとNO。ストレスが無かったかというとNO。しかし、品質は予想を超えて良い。私の中では、今までのベストワークだし、一番疎遠にしてベストチームだと心から思っている。互いのアウトプット以外の拘束をできる限り排除したのが一因だ….と思っている。 以上。/mitsui ref) よこはま動物園ズーラシアホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/ygf/zoorasia/ Web Designing 8月号 http://book.mycom.co.jp/wd/bn/200208.html 京都西陣町家スタジオ(写真がないので伝わらないのが口惜しい!) http://www.nishi-jin.net/ スチールケース(ショールームに行っただけですが色々考えさせられました) http://www.steelcase.co.jp/jp/ http://www.steelcase.co.jp/jp/knowhow/papers.asp

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    コラム No. 14

    Ridual的Webサイト哲学論? Webサイトを視覚化して扱おうと考える。構成要素を何らかのメタファに分類する必要がでる。Ridualでは、サイトに最低限必要な5つの基本要素を考えた。ゾーン、ページ、リンク、URL、コメント。それぞれを「Unit(ユニット)」と呼ぶ。それぞれのユニットに「プロパティ」が存在する。 例えば、ページユニットには、タイトルや拡張子といったプロパティがある。サイト開発者はページを画面上に配置し、プロパティの項目に情報を埋め込んでいく。ページはコンテンツの塊だと考え、そのコンテンツの見栄えをどうするかは、ここでは扱わない。サイト訪問者が、どのようにコンテンツ群を辿っていくかを考えて、2つのページユニットをリンクユニットで結ぶ。基本的な操作はこれだけ。先ずは情報の流れ(デザイン)ありき。それから詳細デザインを、というコンセプト。 では、「ページ」とは何か。サイト訪問者が目にする画面であり、サイト開発者が何らかの形で作らなければならないモノ。だから最終的に動的生成されるのもので、おそらくは紙芝居的なものは作るだろうから、概念的には対応する。勿論動的生成ロジックに組み込まれた時点で、それはゴミとなるが。ページは更に三種類に分類する。スタティック(静的)、ダイナミック(動的)、サーバ(ロジック/判断)。 リンクも二種類。仮想リンクと実リンク。仮想リンクは、プロデューサの頭の中にある「導線」。訪問者にどう辿ってほしいかの道筋。実リンクは実ファイルに記述されているハイパーリンク線。前者は画面上で描けるが、後者は後で出るアナライザしか描けない。 メンテナンスを考えると、類似のコンテンツは同じフォルダ(ディレクトリ)に入れておく方が良い。だから、ゾーンユニットが必要になる。画面上では単なるグルーピングのためのツール。但し、生成するとそれはフォルダとして扱われる。 予めゾーンを配置してから、その中にページを配置していっても良い。最初にページをコンテンツとして並べて作って、それを後から作ったゾーンに入れて行っても良い。画面上のユニットの移動に際しての注意点は、ユニットの左上の点が何処にあるかが位置情報の基点になっていること。左上端をゾーン内に入れれば、そのページはゾーン内に吸い込まれる。 サイトを開発する上で、そのドメインを外れて存在する登場人物も居る。外部リンク。それをURLユニットとした。開発担当の範囲外のモノ。だから、検索サイトへのリンクも、開発上の都合でドメインを分けてあるサイトも、iMode用の電話番号も、URLユニット扱い。 あとはそれらの登場人物への注釈、コメントユニット。パネル単位、マップ単位で独立に書けるようにした。どのパネルの情報を誰に見せるか考えてハンドルする。或いは、最終的にはSVG出力して、Illustratorで編集するだろうから、そこでサジ加減する。 Ridualを使う場面は二方向から始まる。上流設計と解析の場面。前者では基本的に頭の中のイメージがそのままRidualの画面であって欲しい。今まで何人かのRidualユーザにお会いしたが、我々開発者の想像を越える使い込みを行ってくれていて、少し驚かされた。後者では、そのためのツールを三種用意した。ダウンローダ、インポータ、アナライザ。ダウンローダは指定したURLのページをリンクを見ながらページを取って来てくれる。インポータは、ダウンロード或いは自分で配置したファイルのファイル配置構造を調べてくれるもの。アナライザはインポータが内部的に作成したファイルリストにそって中のHTMLタグを解析する。競合サイト分析にも使えるし、教材配布にも使える。 但し万能ではない。現在Ridualが、認識するのは、以下の拡張子のファイル: スタティック(静的)ページ:htm html xml xhtml shtml ダイナミック(動的)ページ:asp php cfm jsp cgi リソース:gif jpg jpeg swf png css svg pdf class js doc xls zip txt これを原則として、更にリンクの張り方を考慮して自動的に(XML)情報としてまとめる。 ここまでが前置き。では問題。 swf はページか? PDFはリソースか? SSI(Server Side Include)で組み合わせるHTMLはページか?リソースか? XMLとXSLでクライアント生成したHTMLはページか?そのリンクはどうする? 今まで考えたことのない問題が降って来た。そんなことはお構いなしに、最終的にサイト訪問者に届くページを考えていた。けれど、自動で判定をするためには、何らかのルールが必要だ。存在するページに何らかのルールを無理やり押し付けることに疑問も感じるが、1つのルールで開発が楽になるなら嬉しいはずだ。Ridual開発陣は、機能だけではなく、そんな議論を続けている。これはページか!?、と。 結論としては、カスタマイズを用意した。後日公開するが、上記の拡張子の設定はあるファイルに記述してある(探せば分かると思います)。それを変更すれば、何をページとするかが変更できる。勿論自己リスクで。 解析機能で一番の悩みは、swfファイル。MX以前のものには辛うじて三種類のリンクの張り方に対応したが、MXではまだ解析ができない。悔しい。 上流サポート機能での悩みは、表現力の足りなさ。パフォーマンスを考えて、できる限り少ない登場人物でサイトを描けるように考えたが、考えが浅かったようだ。もう少し表現力があれば、より多くの情報記述が可能になりそうに思ってきた。悔しい。 先日訪ねて来てくれたRidualユーザ曰く、「このツールで4割作業が楽になった。しかし、このツールで工夫するのに2割今までにない作業が加わった。だから、トータル2割減」。しかし要点は「2割では不満」という点だ。まだまだ改良の余地があるはずだ、と。現時点で2割の作業減になるのであれば、余程相性が良かったレアケースと思うべきだろう。それでも嬉しい。Photoshopが写真を暗室からディジタルに引きずり出したように、Webサイト開発を頭の中からディジタルに引きずり出したい。そんな野望も実は持っている。 開発すること自体が目的化しないようにしながら、今の悔しさも忘れないように、もう暫く走ります。リクエスト、ご意見募集中。 以上。/mitsui

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    コラム No. 15

    損害?/会社と個人の新しい関係 先日、「従業員のインターネット私用がもたらす損害についての試算」という記事が流れた。「勤務時間中に毎週約1時間、私用にインターネットを利用している」という情報と時給等から、日本全体で年間1兆7,000億円の「損害」と試算した。 社員の私的ネット利用は損害であるのか。いや、そもそも私的利用って何なのだろう。会社の全部署については語れないが、少なくともWeb開発に関わる部隊には、上記の試算は奇異に映るのではないだろうか。少なくとも私にはそうだ。 Webに関わる者の醍醐味の一つは、従来経営層レベルのみがタッチしてきた部分に、一介のデザイナやエンジニアが一足飛びに参画できることだろう。会社や製品をどのように見せるのか、そのためにはどのような戦略的仕掛けを打てるのか、どのよな結果だったのか。そのサイト開発に関わった者ならば誰もがある程度見聞きするチャンスを得る。他の人たちよりも少し早く。但し、社内からの目ではなく社外の目で見ることも要求される。 そのためには、Web開発者は日頃何をしているのだろう。できる限り多くのサイトを訪れる。可能な限りの最新情報入手を試みる。時間が許す限り様々なインターフェースを試す。写真満載の雑誌も読見漁るし、人ごみのファッションにも目を配る….等々。 それはエンジニアが全てのコードを見たいと言い切るのに似ているし、DBスペシャリストが全てのパフォーマンスデータに興味を持つのと似ている。しかし、エンジニア等のそれが仕事に見えるのに対して、Web開発者のそれは仕事に見えないことが多々ある。 できる限り多くののサイト 勿論フィルタリングソフトで拒絶されるサイトも含む。実際、少なくとも1997年頃は有能なサイト開発者の多くはアダルトサイトを研究していたはずだ。大規模モールの初期時代、余りにお馬鹿なナビゲーションのはびこる中、アダルトサイトの作りは感動的だった。家庭用ネットがまだまだか細い時代である、鮮明画像を見たいなら会社が一番の場所である。しかし、上司や同僚の目がある。大抵の画面には「上司が来たぞ」ボタンがあり、それをクリックするとさも仕事のような画面に切り替わる仕掛けがあった。切り替わったとき、まだロード中のGIFがあっては画面を睨んでいる姿が不自然なので、最初のタイミングで画像はプリロードされていた。見る側の心理を熟知しつつ、それへの気配りも忘れない。モール系以外で大きな資金が動いたのはこの分野だけだったろうから、本当に有能な方が集結していたのだと思う。JavaScriptの勉強をしたのも、こうしたサイトだった。勿論人目を忍んで。 可能な限りの最新情報入手 自分の嗜好にずれない限り可能な限りの無料mailマガジンを登録する。申し訳ないが全ては読まない。メーラーの振り分け機能を用いて、特定のキーワードに引っかかったものだけを目立つようにする。それでも読む読まないはその時の仕事の過密さ次第。追われるようには読まない。気に入ったサイトの定点観測もする。アイデアに詰まると、ブラブラと更新されていないのを承知でも訪ねて行く。行きつけの店みたいで落ち着く。 勿論ネットだけじゃない。雑誌も見るし、雑踏の中でも気になるモノにはアンテナを張る。例えば渋谷に仕事に行ったら、目的地までの間に何人iPodを耳につけていたか等。テレビを見てても、使われているマシンのメーカが気になる。余りにMacが多ければ、タイアップしているのかとも考える。 様々なインターフェースの試用 懸賞サイトも定点観測のようなものだ。どのような入力項目を要求してくるのか。入力させ方の配慮はどうか。どこまで自動化でサポートしてあげるべきか。自分自身が何を「親切」だと感じるか。戦略的な匂いを感じる設問に唸るときもある。名前の入力の所では、IMの学習機能を考慮して、「読み」を漢字の先に入力させる所もある。辞書を引けば分かることをウダウダと入力させる所もあるし、全角半角をユーザに強いて入力させる所もある。自分がどれ程苛つくか測定する。自分で体感してみないと分かりようがないし、提案もできない。 こんなアンテナを張っている人と仕事をすると色々と話が早い。アンケートを作るとなると、どこどこのサイトのあの機能が良いよね、ここにはあっちのサイトで見たやつ。そんな会話だけで概要設計ができる。都道府県のプルダウンメニューも、申し訳ないがソースを見てそこだけ頂いてしまうのでタイピングの手間も省かせてもらえる。時々不思議なほど私が良いと思うモノを、彼や彼女が良いと思っている時があり、まるで同郷の友に会った気がする。そんなフィット感は確かに稀である。でもその稀な場合に物事が加速するように準備する。 さて、これらは仕事なんだろうか。これが仕事だとしたら、私の私生活はかなり会社から「損害」を受けていることになる。上記の習性はどう考えても勤務時間内だけの話では収まらないからだ。子供と遊んでいても、頭の隅っこではアイデアを練っているし、子供にTVゲームを教えてもらっていても、そのインターフェースに感心しつつも何かに応用できないかと考えている。そう、このコラムだって。 では、それを私は「損害」と感じているか。NOである。妻はある程度疎ましく思っている気がするが、私はこの状況を楽しんでいる。私はこのWebの世界にハマって自分が豊かになっていることを実感している。給料面ではない、色々な世界に接することで、だ。そしてそれはワークホーリック的な感覚だけでなく、自分が得たものを家庭にも回帰させているつもりだ。 社内での活動に、私人公人の差があるのか分からないが。「損害」という言葉を使った時点で、会社と私生活とが敵対関係にあるようなニュアンスを感じる。でも、本質的に仕事は楽しんでやるべきだ。会社も社員が楽しみ豊かになることをもっと積極的に奨励すべきではないだろうか。 ネットの仕事に就いて、楽しいことばかりではない。上記の習性もはたから見れば楽しんでいるように見えるかもしれないが、アイデアというものに畏怖の念に近いものを感じているから身についたものだ。アイデアは決まった手順を踏めば湧き出でるものではない。人を惹きつける「何か」を生み出すのは、やはり努力だと思っている。だから飢餓感を持って回りを探し回るのだ。 サイト開発者は、新しい会社と社員との関係のパイオニアだと思う。どこまでが仕事か分からない領域に踏み込んでいるからだ。会社に「拘束」されているという感覚からの離脱。会社が自分をどう活かすのか、自分が会社をどう活かすのか。こうした文字からでは余りにも理想論に見えるかもしれないが、Webの可能性を見るとまんざら可能性がない訳じゃない。 ITのおかげで、営業先に直行直帰する営業マンも増えてきた。ケータイを使って待ち時間を減らす長距離トラック運転手の話も聞く。働き方に変化が来ているのだと思う。mailの最後に必ず「職住接近」と書いていた先輩が居た。そうなっている。無論モラルは必要だ。アナーキーで言い訳じゃない。Web開発者であることが理由で好き放題できる訳じゃない。でも必要なのは「新しい」モラルだろう。 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(聖書/マタイ9:17) 以上。/mitsui 従業員のネット私用、日本企業に年間1兆7,000億円の損害~Websenseが試算 http://www.watch.impress.co.jp/internet/www/article/2002/0918/websense.htm