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コラム No. 24

圧倒的品質

今まで幾つかのサイト開発に携わってきた。それぞれで、初期構想を詰める段階でその後の「ある流れ」が決まってしまっていた気がする。

単一の部隊で開発を進めるならば、アイデアだしの仕事は分散しないし、複数人で取り掛かっても気心が知れている分だけ、アイデアの収束が早い。しかし、複数部隊(部署や企業)が絡むと、余り容易な道ではなくなる。突き詰めれば、誰がどのようなリーディングをしていくか、誰が皆を引っ張っていくかが、そのプロジェクトの成否の鍵となった気がする。

会社というところでは、そのサイズが大きくなるほど、上の位に就いている人は、取りまとめや意見の交通整理が得意な方が多くなってくる。名采配の名声を持つ人も少なくはないだろう。しかし、私の経験では、その能力は余り重要な評価基準ではない。溢れるほどのアイデアがあって、それを実装する技術力も有り余っているという状況は余りなかったからである。先導する者は、多数の意見をまとめ上げるというよりは、自分でアイデアを出し、向かうべき場所を定め、皆を奮い立たせる者であるべきだ。そうでなければ、サイトは余り上手く育たない。

しかし、実際の権限者は肩書きが上の者に予め決まっているのが通例だし、その座を奪い取るのは並大抵の壁ではない。肩書き上位者の面子がかかっているからである。けれども、名目はともかくとして、実質的なリーダシップを取る方法はある。

今までの経験では、それは最初の打合せのときに、もうそこまで出来ているのかと誰にも言わせるだけの試作を提示することである。動くものに勝るものはない。もちろん幾つかの部分は、改良されるだろうが、大筋を設計する部分を勝ち取ってしまえることがある。自分に割り振られた仕事の領域を超えて作る。インターフェースの担当のはずなのに、データベースのフィールド設計までしてしまう。分業体制など、そのプロトの後に作れば良いと割り切る。必然と担当領域は、当初の予定と異なる。とりあえずヒアリングを、等と悠長な考えで臨んで来るメンバに、圧倒的な品質のプロトを見せ付ける。

過去何度かそのようなことが出来たことがある。それは大変な仕事である。そもそも時間がない、忙しいという大前提の中で、驚くようなプロトを作るのである。しかし、それが出来て、評価された後、仕事の流れは、そうでなかった場合と比べると進みが圧倒的に良い。

このようなプレゼンが出来たとき、幾つか思うことがある。1)デザイナの端くれであって良かった。 2)日頃の鍛錬と日頃の嗜好。 3)このサイトがかわいい。

1)デザイナの端くれであって良かった:

分業体制を敷く場合、幾つかの方法があるだろう。私は、幸か不幸か、何を扱うかという即物的な分け方の部隊にしか所属したことがない。DBを扱うグループ、Webアプリケーションを扱うグループ、インターフェースを扱うグループ。大まかに言って、この3種類に分かれることが殆どだった。その場合、このサイトのエンドユーザの使い方も含めた全体像を分かり易く示せるのは、どう考えてもインターフェース係である。残り2つのチームはそれをやろうと思っても、それぞれの最終目的とするモノの特性から、根本的に難しい。

これは幾つかの問題点を示してもいる。インターフェースからDB構成までの知識。扱うモノを基準としたチーム分けの限界。使われる場面に対する具体的なイメージとそれへの対応。セクショナリズムによる、ユーザのユースケース途中の壁や対立。

2)日頃の鍛錬と日頃の嗜好:

うまく行ったプレゼンの背景には、その作ろうとするサイトの方向性が、日頃の自分の嗜好とあっている場合が多い。その分野が好きだからウォッチしている頻度も高いし、色々と言葉にしないまでもアイデアが頭の引き出しに既にある。こうすればもっと良くなるのに、あーすれば使い易くなるのに。但し、同時に溜まっているアイデアを目に見える形にするだけの技術が必要になる。これは、日頃の鍛錬としか言えない。自分なりのアイデアの溜め方に工夫を凝らし、その出し方もグルグルと頭の中を常に回っている。

逆に自分の興味のないモノを扱うサイトには鼻が利かない。でもそれに得意な同僚がいればよい。チーム内の嗜好性の広さが、そのチームのフィールドの幅や深さになる。

3)このサイトがかわいい:

愛着。「千と千尋の神隠し」のインタヴューの中で、宮崎駿監督が言っていた、「千尋が中々かわいくなってくれなくて心配だったが、あるときから千尋がかわいいと思えてきた。それでこの映画はいけると思った」と。自分が手塩をかけて育てたプロトが、実際の技術によって「本物」に実装されていく。なんとも言えないワクワク感がある。そんなとき、その実装版プロトのアクセスログには、私のPCのIPアドレスが上位を占める。よくそんなに見るな、と言われながら、飽きもせずに見つめている。勿論ぼーっと見ている訳ではない。別の仕事をしながら、画面上にはそのサイトを表示するブラウザが必ずいて、ことある毎にクリックする。そこまで惚れ込んだら、余り失敗することはない。何度も見ているうちに、更にアイデアも湧くし、見ている分だけ、自分でテスタになっていて、バグ出しにも貢献している。しかも、画面単位のテスタではない。どう使われるかというユースケースを考えた連結テストをやっている。ついでに、そのサイトが出来上がる頃には、Phase2のアイデアが溜まっていることすらある。

圧倒的な品質で勝負するのは、何もWebの世界だけではない。スポーツの世界でも良く見られることだ。格下が格上に、キチンと勝利するには、圧倒しなければならないことが多々ある。少し上くらいで勝とうなどと思っても、格上には、それなりに有力者がついている。公正な判定を望むことは諦めよう。引き分けではチャンピョンベルトは移動しない。誰の目にも明らかな形で勝負がついたなら、誰にも文句は言われない。そうやって這い上がっていくしかないモノが沢山ある。Webもそうなのかと思う。

社内コンペであるなら、話はそれほど切実ではない。誰が取り仕切ろうと、経済的には、それほど大きな問題ではない。しかし、社外コンペではそうは行かない。自分達の収入に直結して来る。

そうした厳しい競争の中で、全戦全勝に近い仕事をする会社やグループもある。何が違うのか。アウトプットの出し方の方法論が確立しているのだと思う。HTMLのコーディング技術やFlashの作り方等の個々の技術ではない。提案や試作といった総合的なアウトプットを、短時間で形にするノウハウが、組織として蓄積されている。そしてその細やかさが品質に直結している。提案書1つにしても、フォーマットから押さえられている。何かをするときに、何を提出すれば効果的か等は、アイデア出しの人間は考える必要がない。決まっているのだ。ただアイデアの品質に集中でき、集中すべき状況に置かれている。

こうした環境に慣れない者には、窮屈に感じられるかもしれないが、たぶん逆である。情報は、コンテンツ(中身)とフォーマット(見栄え)に分離することで、より高い汎用性を得られる。提案もアイデアと形式とに分離することで、より高い品質を生み出す循環型の環境を作り出せる。

2003年、一部の技術を除いて、Webサイトの構築はかなりコナレて来ていると言えるだろう。そんな中で勝ち残っていくためには、システマティックなワークフローの確立が急務だと思う。Ridualはその駒として生き残れるだろうか。

以上。/mitsui

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