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    コラム No. 30

    継承 現在小三の娘をもつ身として、かなり先の心配をしている。何十年後かにいきなり会って欲しいと言われ、見知らぬ男性と席と共にする日のことである。さほど人に対して先入観も持たない方だし、常時一緒に居ないのであればたいていの人とは、まぁ上手くやっていけるだろうとは思っている。しかし、毎朝通勤の度に目にする最近の中高生あたりの感覚には、少し頭を抱えたくなる。そもそも何故どこにでも座れるのだ? なんだか話をすることすら、同じテーブルで同じテーマで少しの時間に語ることが出来ないかもしれないという恐れがある。そんな相手を娘が選んでしまったら。ベタベタの家族観は持っていないので、それはそれで何とかなるだろうが、少し怖い。いや大分怖い。 もちろんパートナー選びは娘の自由である。我家は相手を選ぶようなお家柄でもない。本人の自由意志と一緒にやっていくという決意が一番大切。下された決定に対して余程のことがない限り多分反対はしない。でも、今から出来ることがある。それは価値観を継承させること。 自分の親はどんな価値観を持っていて、何に対してハッピーで、何に対して怒りを覚え、何に感動するのかを知ってもらうこと。可能ならば、それに共感して同調できること。人種も肌の色も第一の問題ではない。彼女が自分の家庭の中で何を大切にしていくかの種を蒔いておきたい。その種蒔きに成功したと思えるなら、彼女のパートナー選びに心配はない。その選定に自分が関わっているのも同じだからだ。 価値観の継承は難しい。押し付けることは事実上不可能だ。受け手が心から受け入れない限り、見た目はともかくとして、継承されたことにはならない。短期間で結果が分かるものでもない。長い間の関係の中でじわじわと浸透するものだし、何かの拍子に片鱗を見るかのように確かめることが出来る種類のものだ。そして、出来ることは、多分コミュニケーションしかない。お互い忙しいので、余り時間を取れないが、可能な限り色々と話をするように意識している。そして娘にも会話ある家庭を築いて欲しいので、妻とも話す時間を持つ。子供達は両親が話し込むのをかなりの頻度で体験している。 娘と話していて、自分の小三時代を忘れてしまって、そんなことまで考えているのかと思わされることもある。同じ感覚を共有できて、言葉に出来ない感動を覚えることもある。通じ合っていると実感出来るときの喜びは、仕事の成功時の感動の更に内側を震わせるような感覚を持つ。 先日の冬休み、子供達と映画に行った。スクリーンで見るのは何十年ぶりかというゴジラ。しかし娘の狙いは併映のハム太郎。同じ映画館でやっているハリウッド物のほうが良いなぁと半ば思いつつゴジラのチケットを買う。ハム太郎はモーニング娘系の華やかな女の子が隠れた主役、ゴジラはメカゴジラを操る黙々と自己鍛錬を怠らない女性が主役。後者に華やかさは無く、努力や汗の匂いがプンプンする。久々に大画面で見るゴジラは予想を超える出来で感動した。見終わった後、娘は後者を「格好よい」と涙を拭いた。このまま行くと、多分渋谷でガングロという流れにはなりそうにない。安堵感と共に、何かを継承できていることを実感する。何を「格好よい」とするかという価値観。 会社でサイト設計をしている間も、実は継承は行われている。グラフィックデザイナに依頼をするとき、相手の力量を考えながら、出来上がりのテイストを考えてお願いする。それらを考えるとき、相手の価値観をかなり受け継いでいる。依頼されたデザイナも、こちらの言葉の裏を読んでいる。以前作った時の反応や、時々話す言葉から、こんなのが好きなのではないかと推測している。お願いしたものが出来上がってきたとき、やっぱりこう来たかと思うときもある。逆に、やっぱり喜んでもらえました、と読まれている時もある。そうした価値観の共有は信頼感に繋がり、安心して仕事を続けていけれる根となる。 以前、凄い部長と遭遇した。人当たりの柔らかい、バリバリの先導型ではない方。その人の下にいた時、かなり火の付いた製品開発をした。3ヶ月ほど土日なし残業200時間強。ただただコードを生産しないと間に合わない状態。その製品のヘルプの翻訳のタスクだけが宙に浮いて取り残された。プロジェクトの進捗を報告した後、約300項目のヘルプの翻訳を、「それ、僕がやりましょう」と部長が静かに言った。その時背中に走った戦慄に近い感覚を今でも忘れられない。数日後受け取った翻訳されたファイルは、そのプロジェクトの定礎の石となった。部長がヘルプを翻訳したプロジェクトに泥を塗る訳にはいかない、誰も言葉にはしなかったけれどそんな雰囲気があった。部長は行き先を指し示すだけの役目と思い込んでいた私に、部長もそのプロジェクトの一員であるという事実は衝撃的だった。立っているものは部長でも使え、その部長はそう教えてくれた。当時3年目のペーペーの私にだ。 上役のこうした言動は継承される。この部長の部隊は堅牢だった。誰もがやる気に満ちていた。自分が助けてもらったことを、次世代に返していくという暗黙のルールがそこにあった。正しいものが継承されている組織は居て心地よく、そして強い。 私は転職組なので、色々な組織を見てきている。どこでも上司のカラーは部下に多かれ少なかれ継承されていく。重荷を負わない上司の部隊は、誰かに仕事を投げることに長けてくる。情報収集を怠る上司の部隊は、情報が読みやすい形で配布されるまで探しもしない。毎回長大なドキュメントを部下に要求する上司の下では、同じように長大なドキュメントを外注会社に要求する。打合せの雰囲気だけを重視する上司の下では、何が決まったのか分からないような会議をやりたがる。数値管理を過度に進める上司の下では、人を見ないでエクセルだけを見る部下が権限を持つ。失敗をネチネチいたぶる部隊はチャレンジをしなくなる。デザインを軽視する上司の下では、デザイン変更が繰り返される。HTMLに適度にこだわる上司の下では、デザイナ自身が美しいコードを意識する。ネットを通じたコミュニケーションを楽しむ上司が率いると、より楽しいアイデアや仕掛けがチーム内に芽を出してくる。 先日来期の年俸交渉を行った。年次が上がってくると、自分の給与の何割かはこうした継承への責任なんだろうと思えてきた。読む度に、決して今からでも遅くないと信じようと思う文書を、最後に。 批判ばかりで受けて育った子は、非難ばかりします。 敵意にみちた中で育った子は、だれとでも戦います。 ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります。 ねたみを受けて育った子は、     いつも悪いことをしているような気持ちになります。   心が寛大な人の中で育った子は、がまん強くなります。 はげましを受けて育った子は、自信を持ちます。 ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。 公明正大な中で育った子は、正義心を持ちます。 思いやりのある中で育った子は、信仰心を持ちます。 人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事にします。 仲間の愛の中で育った子は、世界に愛をみつけます。 吉永宏氏訳 アメリカインディアンの教えより ref) アメリカインディアンの教え    詩:ドロシー・ロー・ノルト/ニッポン放送/加藤諦三     http://www.atc.ne.jp/seikindo/fusigi/americanindie.htm ref) 札幌太田病院(いじめの話も興味深い)     http://www.sapporo-ohta.or.jp/ohta/S/S-4.htm ref) こっちの訳もいい     http://www2s.biglobe.ne.jp/~KANEMO/indian.html 以上。/mitsui

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    カラム

    No.30 継承– mitsui 02/28-19:02 No.29 プレゼン– mitsui 02/21-18:09 No.28 ER– mitsui 02/13-17:52 No.27 肥えた目– mitsui 02/07-19:46 No.26 モノ:CLIEというデバイスと情報の形– mitsui 01/30-21:21 No.25 道– mitsui 01/24-00:37 No.24 圧倒的品質– mitsui 01/16-13:04 No.23 悪夢– mitsui 12/27-13:17 No.22 キャリアパス– mitsui 12/19-11:10 No.21 情報の蓄積– mitsui 12/11-19:15

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    コラム No. 11

    デザイナとエンジニア 2001年8月、シアトルで行われた「Web Design World 2001」に、幸運にも参加できた。デザイン系のセッションの中に、余りにも異質なセッションが混じっていた。「XML’s Successes and Failures(XMLの成功と失敗)」、講演者はXMLの生みの親の一人、Tim Bray氏。 エンジニアのカンファレンスで、色彩等のデザインの根本のセッションを持ったり、情報デザインに関するそれなりの識者を呼んで学ぼうとするものを、私は今まで知らない(私が知らないだけという可能性は高いが)。しかしデザイナの貪欲な知識欲はこんなセッションを実現させた。ここで話されたのはXMLの基礎ではない、XMLを産み育てた人間が、何を成功と思い、何を失敗と思っているかという個人的な想いが話されたのだ。XMLについては書籍が既に多く出版されていた。それを皆で学ぶのでは足りない。最高峰を呼んで、その触覚に触れようとする狡猾さが感じられた。学ぶという意思も。 考えると、マルチメディアスクールなるモノが世に出た当時から、デザイナの貪欲さはそうだった。1996年辺りで既に、PhotoshopやMacintoshを学ぶというレベルですら、その先に目指していたものはシリコングラフィックス社(現SGI)のワークステーションだったりした。Macintoshの操作法を覚えながら、UNIXも学ぶ。無謀とも思えることを、多くの者が当り前のように挑んで行った。 その多くの無謀なる開拓者から、Javaスクリプト描き(書き?)やCGIエンジニアも生まれてきた。Flash等の分野では、もはやエンジニアとデザイナの区別は無いのかもしれない。そんな呼称に拘っているのは、今のポジションから追い落とされそうな旧世代だけなのかもしれないとすら思ってしまう。 エンジニアも勿論負けてはいない。様々なプログラミング言語や開発環境や概念が生まれ発展している。けれど、と思ってしまう。COBOLエンジニアがJavaエンジニアになるのは確かに非常な努力が必要だ。しかし、Photoshop使いがCGIエンジニアになるのと比べたらどうだろう。絵を主にしてきた者が、コードや文字主体の世界に移っていく力は如何ほどだろう。 このカンファレンスにエンジニアの立場から参加した友人がいた。幾つかの比較的エンジニア寄りのセッションに参加した彼は言った、「デザイナって、当り前のことを、当り前にやるってのを学びに来るんだ」。情報デザインから各論まで、順序だてて進めていくことの重要性とともにワークフローにも焦点が向けられたカンファレンスだったので、余計にそう思えたのであろう。しかし、聞いた途端にふきだしてしまった。エンジニアが「当り前のことを当り前にできない」という点をどれほど問題にしてきて、どれだけの労力をその是正に向けて進んでいるのか、知らない訳ではあるまい。彼のデザイナを見下した言い方にカチンと来たのも事実だが、「エンジニアもじゃないか」と即座に答えてしまった。 世に書籍は多々あれど、デザイナ向けの情報整理学の本と、エンジニア向けの情報整理学の本とどれ位の比率で存在するのだろうか。絵筆の持ち方は、プログラムコードの書法にあたるかもしれない。イメージの全体像から仔細に向かう捉え方は、プログラムのモジュール分け概念にあたるかもしれない。そんなモノまで含めたらどうなるのだろう。エンジニアは、綺麗なコードで正しく動くという、「当り前のこと」を達成するために、間違いなく膨大な知識とエネルギーを費やしている。 私は、最初の職種がエンジニアなので、デザイナがエンジニアを卑下してもムッと来てしまうのだが、正直言ってそういう場面は少ない。デザイナからは、エンジニアが分からず屋であることへの不満であることの方が多い。でもそれはデザイナ間でも起こる事だ。エンジニアがデザイナを悪く言うとき、どこか、見下すようなニュアンスを含む。「おまえ達には分からない深遠な事柄があるのだよ、黙って絵を仕上げなさい」。 エンジニアは機能を動かすことに熱中している。インターフェースは単なるその機能への入り口と考えている。エンジニアは基本的には複数人で動くのでスケジュールの共有感覚が強い。先を見越して動かなければならない。稼働日まで、或いはその後のメンテナンスについての思慮が頭の中に溢れている。では、デザイナどうか。デザイナは稼働日以降のことを見つめているのだ。その機能がどう使われるのか。 エンジニアとデザイナの話をする時に、私は1つのボタンの絵を使う。ボタンは、押されてから起動する「動き」がある。しかし、その「動き」は、押されなければ動けない。エンジニアはその動きを設計し、デザイナは押される行為を設計する。二人が補完し合って、そこにそのボタンがあることの存在意義が生まれる。そうした両面が必要とされる業務は多いだろうが、特にWebはこれらを短期間に仕上げる必要がある。だからこそ強力な補完関係が必要な分野なのだ。 羨ましいような関係を築いている組織がある。職種はもはや単なる初対面の人の先入観を利用するためだけにある。デザイナと思って話してくれた方が分かりやすいか、エンジニアと思ってくれた方が楽か。やることに差は無い。動けばいい、美しければ良いなんて思っている人は、そこには誰もいない。機能は使われてこそ。使われるようにデザインすべきもの。皆がそんな風に考えながら進む。そこで働く人達だけでなく、そこの「作品」のエンドユーザの幸せをも羨ましく思う。 そんな風に考えたら、コトは職種の問題ではなく、未熟か成熟かの問題なのかもしれない。自分達の仕事の範囲を、時間的に、業務的にどこまで見越して考えているのか。そうした考慮の上でどこまで人材を有効活用しているのか。 優れたエンジニアは、自分が考え得るモノよりも「もっと良い方法」がある可能性を信じている。だから聞く。どんな意見だって聞く、ただし短時間で。その上で吟味する。優れたデザイナはあらゆる可能性を想定する。その選択肢を拡大方向に維持するために、常にアンテナを可能な限り広げる。恐らく、超一流のところでは、デザイナもエンジニアも変わりがないのだろう。 時々、サイト開発はバレエのようなモノかと思うことがある。イメージしているのは、映画「愛と哀しみのボレロ」のラストシーンのようなバレエ。超一流の踊り手が自分の最高のパフォーマンスを演じつつ、全体としての調和がある。観客席の正面から見ても横から見ても共通の流れが見える。しかし、個性が埋没しているわけでもなく、個々のダンサーの表情も光ってる。隣の人間の動きに注文をつける余力など誰にも無い。ただただ全力を尽くすだけ。 エンジニアとデザイナが、こんなコラボレーションが出来たなら。互いをリスペクトできる様に全力を出せたなら。必要以上の壁を作らずに競え合えたなら。 既に、双方から混血もニュータイプ(新世代)も生まれている。異質なものの集合体の方が、純血の集合体よりも強いことは様々に証明されている。開発者にとっては、Webはそんな実験場なのかもしれない。 以上。/mitsui ref) ・Web Design World : ThunderLizardが主催するカンファレンス。2002/11/18-21にBostonでも。 http://www.webdesignworld.com/

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    コラム No. 12

    会議 はるか昔、神からの使命を受けて、誰とも相談せずに世界最大のプロジェクトに挑んだ男がいた。巨大な箱舟を丘に建造し、世界中の動物達を載せ、豪雨を乗り越えた。「ノアの箱舟」のノア。 そのノアについて、クリスチャン雑誌「clay(クレイ)」にこんな文書が載っていた、「ノアが箱舟建設委員会を設けていたら、きっと箱舟は完成しなかったろう」。 Web開発関係者で、これを読んでふき出す人は多いと思う。現場に近いほど共感できる感覚かもしれない。サイト開発には多くの、とても多くの会議が必要とされる。そして、その議場で、時間が非常に有意義に進むと感じる現場担当者は少ないと思うのは、私の思い込みだろうか。議論をすればするだけ選択肢は生まれる。どれにするかが問題ではなく、どれかに決めること自体が問題とされる場であることも多い。しかし、民主的にとかコンセンサス等の言葉によって、決断がズルズルと延ばされる。 御厨さと美氏の作品の中でこんな台詞がある、「君が合議的な場を作って物事を進めたがる理由を言ってやろうか? 実戦経験の無さから自分の指揮能力に自信を欠いているからだ(ルサルカは還らない/Vol.2)」。即断できない同僚(形式上は上司)に対する台詞だったが、無意味な会議にイライラしていた私には、「そういうことだったのか」と眼から鱗のショックだった。それ以来、やたらと会議の場を作りたがる者に、怒りではなく、可哀想にと思うようになれた。 いつまでも交差点に立ち止まり迷っている訳にはいかない。どこかで決断が必要だ。そしてそうした決断は、経験が必要だ。Webはそうした練習にもってこいだと思える。そもそもWebは作って「お終い」ということはまずあり得ない。常に作り続けなければならないモノだろう。だから一度や二度の失敗は合って良いのだと思う。サイト管理者自身も育たなくてはいけないのだから。 自分の目で確かめた訳ではないが、amazon.com はある時期ユーザによって見える(見せる)サイトを変えていたそうだ。どういったデザインが良いのかを実地検証していた。最終的には(エンド)ユーザに聞けという鉄則を実際に行った訳だ。会社規模と知名度を考えると、そのフットワークの軽さに拍手を送りたくなる。先日の9.11に喪に服した yahoo.com サイト等にもサイト運営者自身の意思と開発とが直結しているのが見えて、感動的だった。こんなことができるのは、セミナー等机上の知識からではない。自ら決断して、自ら確認する、そういった指揮能力の向上と共に培われた感覚なのだと思う。 別に海外だけが優れていたわけではない。例えば、リクルート。3日間徹夜で3~4人で作られたサイトの話。しかも静的サイトではない住宅情報の検索サイト(1997年頃)。アイデアを出してその場で試作、その場で試して試行錯誤して、完成させる。デザイン感覚からスクリプト、動作保証検証のセンスまで一流の者が集まる必要があるが、それが実現されていた。そのスキルにも驚くが、そうした権限を与えてしまう組織にも息を呑む。「任せた」の一言なのか。これで燃えなきゃ嘘だろう。セミナーで講演したその開発者の眼は、当時誰よりも輝いているように見えた。羨ましかった。 誰にでも実現できるものとそうでないものがある。上述のような環境は与えられ様がなかった。だから自分達だけでできることを探した。会議はできるだけ短くする。ガンクビ揃えて決めるべき事項か考えて各人が動く。疑問が湧けば、その時に責任者を掴まえて解決する。基本的に「却下」と「了解」の即断即決で対応する。そして、昨日の結論と矛盾しても謝れる間柄も作る。信頼する。信頼される。不必要なドキュメントは作らせない。必要かどうかは、まず処理できるかで判断する。一週間後の会議までにその担当者が読んで処理することが現実的なのかどうか。積読されて、会議の場で数秒で斜め読みされるのが分かっていたら省く。熱意で説得可能だと思えたら先行して作って、自分達の意志高揚も図る。 もちろん会議自体が敵なのではない。そこに潜む何かが敵なのだと思う。それは、時に責任回避を目的とし、時に何人を率いているかという自己満足を目的にしたりする。サイト開発のリーダは、その進捗を妨げるモノを可能な限り排除すべきだ。リーダになる人は、そういった仕組みを見つめ直し、自分も含めて開発活性化を阻むモノが何かを見極めねばならない。 世界を救う使命がノアだけに降ったように、担当するサイトを「救う」使命は大きな人数には示されないように思う。聖書はあっさりと書いてあるが、苦しいこともあった筈だ。だが、少数精鋭で短期間。ノアは大洪水の後に「約束の虹」を見る。Webサイト開発のヒントがここにもある気がする。 以上。/mitsui ref: 日本聖書協会(ノアの話は創世記6~9章) http://www.bible.or.jp/main.html クレイ http://www.harvesttime.tv/ http://www.harvesttime.tv/Products/Clay/Clay.htm 御厨さと美 mangaseek

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    コラム No. 13

    オフィス環境/ワークスペース 自宅から車で30分圏内にズーラシアという広大な動物園がある。敷地面積約53.3(現在は28.9)ヘクタール、展示動物約60種500点。日本最大級の動物園。 動物園の情報をこまめに見ている訳ではなくても、最近の動物園は昔と少し違うことには気が付く。昔の動物園は、絵に書いたような檻の中に動物が寂しくたたずむというイメージ。地面はセメントで、いかにもゴミは洗い流しやすそうだが、当の動物にはアカギレが痛そうなもの。ところがここは違う、たぶんここだけでなく新し目の動物園は変わってきているようだ。それは、目的が変化して来ているからだろう。ズーラシアは明記している、「種の保存を行っていくことを目的の1つ」にしていると。 「展示動物○点」という言い方に少し戸惑いはあるが、動物がただ見られれば良いという発想から、活き活きと「居る」状態にする方向に向いている。そして、それは希少動物だけに限らず。陳列されていれば良い訳ではない、その動物らしさが必要だし、それが見たいし、見せたい。その為には人間が見えない死角も用意するし、首だけ突っ込んで見るようなドームも用意する。 動物でさえこうなのだ。ましてや人間をや。正しいデザインができる人間は、かなり希少な存在だ。そうした種は積極的に何かしなければ絶滅するかもしれない。そうした能力には、発揮するのに相応しい環境というものがあるのかもしれない。 私はいわゆるデザイナ風のオフィスで仕事をしたことがない。どの会社でも決まりきった形の面白みのない机と椅子が与えられる。そして、一定期間ごとにモラルとか風紀とかいう名で、一流のデザイナは一流のビジネスマンでないといけない、とルールが強化される。問題を物質的オフィス環境だけでなく、その空気にまで広げて、「ワークスペース」と呼ぶが、何かが違うと思っている。 Web Designing 8月号で、「Webデザイナーのワークスペース」の特集をしていた。目を引いたのが京都西陣町家スタジオ。古い商家に伝統とハイテクとを融合させようとする試み。和室も良いけれど、庭も良い。あんな環境の中に置かれたら、どんな発想が出てくるのだろう。色々と想像しながら写真を見つめた。いわゆる刺激が欲しくて渋谷等へ集まる傾向もある。好き嫌いに関わらず最近のスピード感あふれるFlashサイトなんかは、やはりどこか疾走感のある街で作るべきものかもしれない。やはり環境の意味は大きいだろう。 ネットバブル時代は豪勢なデザインオフィスを色々な雑誌で見かけたが、最近は余り見なくなった。「贅沢だ」という風潮もあるように思う。でも、備えている天分やタレントを活かし切らずに、デザイナを囲うのはもっと「贅沢」で、勿体無い。 私は職場の席が嫌いだ。特にこのRidualの仕事をし始めてから、自宅のほうが余程効率が良いことを実感している。悶々と考える作業には私の会社の席は余りに、思考が中断させられる要素が多い。勿論それに助けられる時もあるし、相談相手が必要な時もある。しかし、自宅のほうが私には合う。会社に行く理由は、行かねばならないからであり、プリンタとネットと会議室が揃っているからだけである。 根本的に、Webに生き甲斐を感じているものは、働きたいんだと思う。家庭も省みず情報発信してきた者も多い。四六時中、当のクライアント以上に、そのサイトのことばかり考えている知人はゴロゴロしている。もしも快適な空間が与えられたなら、もっともっと働く用意があるのではないだろうか。会社に行くのではない、働きに行く。そんな環境が欲しい。 米国のエンジニア部隊に混ぜてもらったとき、そこでは一人に与えられているブースは四畳半以上。体育館のようなオフィスにそんなブースが、上から見ると蜂の巣のように並んでいる。その中は完全にその住人の個人部屋。3メートルを超える風船人形が飾られるブースから、小さな人形の山にキーボードが隠れてしまうようブースまで様々だった(勿論ちょっとしたアクセサリが大勢で過激なのは少数派)。さすがに女性ヌードポスターはない。それには、男性ヌードポスターで応戦した女性が居たためという逸話も聞かされた。正当な理由で幾人かでも嫌悪感を持つモノは避ける。だからタバコも全面禁止。しかも日本のように深夜になるとこっそり吸うようなこともない。集中できる快適さ。隣人と折合いがつき、その人が一番パフォーマンスを発揮できる環境は、最終的には会社のためなんじゃないかと思う。 ガンダムに囲まれてパフォーマンス上げる者も入るだろうし、すっきり整理整頓の中でバリバリに頑張れる者もいるだろう。その差は、ビジネスマンらしいかの差ではなく、個性の差の話なんじゃないだろうか。そして、「へぇー、ガンダムに囲まれている方がはかどるんだ..」なんて相手を容認していくことは、デザインの幅を広げることにも無縁じゃない。 Webの環境は、見る側の環境も劇的に変わっている。パソコンだけを考えていればよかった時代は遥か彼方だ。自分達が作ったページがどんな環境で見られているのか見極められるものなのかすら怪しい。開発環境の変化も劇的だ。かつてこんなスピードで技術が投入され過去への互換性も無視して大衆に広まっているものってあるんだろうか。まさにドッグイヤー。なのに、作る側の働く「環境」は昔ながらだ。誤解も恐れずに想像すると、これは管理者側の怠慢だ。 プログラム開発では、機能などによって分けたモジュール(部品)を最終的な実行可能な状態に束ねることを「ビルド」と呼ぶ。いかにモジュールの性能が良くても、ビルド時に正しくそれを束ねず、古いものを束ねてしまったら、最終成果物は意図しないものになる。だからエンジニアは履歴管理等を基本とするし、ビルド環境は真っ先に整える。今、Webの世界での個々人の働きはまさにこのモジュールだ。個々のモジュールがいかに良くても、最終成果物を出すビルド時に問題があれば悲しい結果が待っている。オフィス環境やそれを含めた社風やモラルは、このビルド環境にあたる。 動物ですら、定型の檻に入れて悦に入る時代は終わろうとしている。人間もそろそろ個性に合わせたワークスタイルで勝負する、勝負させる時代になってきても良いだろう。 ちなみに、Ridualはリモート開発で行った。横浜市内に二カ所と高知、計三ヶ所。全員が顔を合わせたことは数回。それぞれが自分の意志で決めたオフィス環境ではないが、自分のワガママが一番言いやすい環境だとは言える。原則週一回、開発リーダーとだけ顔を合わせる。しかしそれ以外はmailのみ。私が電話嫌いなので電話も殆どしない。意思の疎通が完全であったかというとNO。ストレスが無かったかというとNO。しかし、品質は予想を超えて良い。私の中では、今までのベストワークだし、一番疎遠にしてベストチームだと心から思っている。互いのアウトプット以外の拘束をできる限り排除したのが一因だ….と思っている。 以上。/mitsui ref) よこはま動物園ズーラシアホームページ http://www.city.yokohama.jp/me/ygf/zoorasia/ Web Designing 8月号 http://book.mycom.co.jp/wd/bn/200208.html 京都西陣町家スタジオ(写真がないので伝わらないのが口惜しい!) http://www.nishi-jin.net/ スチールケース(ショールームに行っただけですが色々考えさせられました) http://www.steelcase.co.jp/jp/ http://www.steelcase.co.jp/jp/knowhow/papers.asp

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    コラム No. 14

    Ridual的Webサイト哲学論? Webサイトを視覚化して扱おうと考える。構成要素を何らかのメタファに分類する必要がでる。Ridualでは、サイトに最低限必要な5つの基本要素を考えた。ゾーン、ページ、リンク、URL、コメント。それぞれを「Unit(ユニット)」と呼ぶ。それぞれのユニットに「プロパティ」が存在する。 例えば、ページユニットには、タイトルや拡張子といったプロパティがある。サイト開発者はページを画面上に配置し、プロパティの項目に情報を埋め込んでいく。ページはコンテンツの塊だと考え、そのコンテンツの見栄えをどうするかは、ここでは扱わない。サイト訪問者が、どのようにコンテンツ群を辿っていくかを考えて、2つのページユニットをリンクユニットで結ぶ。基本的な操作はこれだけ。先ずは情報の流れ(デザイン)ありき。それから詳細デザインを、というコンセプト。 では、「ページ」とは何か。サイト訪問者が目にする画面であり、サイト開発者が何らかの形で作らなければならないモノ。だから最終的に動的生成されるのもので、おそらくは紙芝居的なものは作るだろうから、概念的には対応する。勿論動的生成ロジックに組み込まれた時点で、それはゴミとなるが。ページは更に三種類に分類する。スタティック(静的)、ダイナミック(動的)、サーバ(ロジック/判断)。 リンクも二種類。仮想リンクと実リンク。仮想リンクは、プロデューサの頭の中にある「導線」。訪問者にどう辿ってほしいかの道筋。実リンクは実ファイルに記述されているハイパーリンク線。前者は画面上で描けるが、後者は後で出るアナライザしか描けない。 メンテナンスを考えると、類似のコンテンツは同じフォルダ(ディレクトリ)に入れておく方が良い。だから、ゾーンユニットが必要になる。画面上では単なるグルーピングのためのツール。但し、生成するとそれはフォルダとして扱われる。 予めゾーンを配置してから、その中にページを配置していっても良い。最初にページをコンテンツとして並べて作って、それを後から作ったゾーンに入れて行っても良い。画面上のユニットの移動に際しての注意点は、ユニットの左上の点が何処にあるかが位置情報の基点になっていること。左上端をゾーン内に入れれば、そのページはゾーン内に吸い込まれる。 サイトを開発する上で、そのドメインを外れて存在する登場人物も居る。外部リンク。それをURLユニットとした。開発担当の範囲外のモノ。だから、検索サイトへのリンクも、開発上の都合でドメインを分けてあるサイトも、iMode用の電話番号も、URLユニット扱い。 あとはそれらの登場人物への注釈、コメントユニット。パネル単位、マップ単位で独立に書けるようにした。どのパネルの情報を誰に見せるか考えてハンドルする。或いは、最終的にはSVG出力して、Illustratorで編集するだろうから、そこでサジ加減する。 Ridualを使う場面は二方向から始まる。上流設計と解析の場面。前者では基本的に頭の中のイメージがそのままRidualの画面であって欲しい。今まで何人かのRidualユーザにお会いしたが、我々開発者の想像を越える使い込みを行ってくれていて、少し驚かされた。後者では、そのためのツールを三種用意した。ダウンローダ、インポータ、アナライザ。ダウンローダは指定したURLのページをリンクを見ながらページを取って来てくれる。インポータは、ダウンロード或いは自分で配置したファイルのファイル配置構造を調べてくれるもの。アナライザはインポータが内部的に作成したファイルリストにそって中のHTMLタグを解析する。競合サイト分析にも使えるし、教材配布にも使える。 但し万能ではない。現在Ridualが、認識するのは、以下の拡張子のファイル: スタティック(静的)ページ:htm html xml xhtml shtml ダイナミック(動的)ページ:asp php cfm jsp cgi リソース:gif jpg jpeg swf png css svg pdf class js doc xls zip txt これを原則として、更にリンクの張り方を考慮して自動的に(XML)情報としてまとめる。 ここまでが前置き。では問題。 swf はページか? PDFはリソースか? SSI(Server Side Include)で組み合わせるHTMLはページか?リソースか? XMLとXSLでクライアント生成したHTMLはページか?そのリンクはどうする? 今まで考えたことのない問題が降って来た。そんなことはお構いなしに、最終的にサイト訪問者に届くページを考えていた。けれど、自動で判定をするためには、何らかのルールが必要だ。存在するページに何らかのルールを無理やり押し付けることに疑問も感じるが、1つのルールで開発が楽になるなら嬉しいはずだ。Ridual開発陣は、機能だけではなく、そんな議論を続けている。これはページか!?、と。 結論としては、カスタマイズを用意した。後日公開するが、上記の拡張子の設定はあるファイルに記述してある(探せば分かると思います)。それを変更すれば、何をページとするかが変更できる。勿論自己リスクで。 解析機能で一番の悩みは、swfファイル。MX以前のものには辛うじて三種類のリンクの張り方に対応したが、MXではまだ解析ができない。悔しい。 上流サポート機能での悩みは、表現力の足りなさ。パフォーマンスを考えて、できる限り少ない登場人物でサイトを描けるように考えたが、考えが浅かったようだ。もう少し表現力があれば、より多くの情報記述が可能になりそうに思ってきた。悔しい。 先日訪ねて来てくれたRidualユーザ曰く、「このツールで4割作業が楽になった。しかし、このツールで工夫するのに2割今までにない作業が加わった。だから、トータル2割減」。しかし要点は「2割では不満」という点だ。まだまだ改良の余地があるはずだ、と。現時点で2割の作業減になるのであれば、余程相性が良かったレアケースと思うべきだろう。それでも嬉しい。Photoshopが写真を暗室からディジタルに引きずり出したように、Webサイト開発を頭の中からディジタルに引きずり出したい。そんな野望も実は持っている。 開発すること自体が目的化しないようにしながら、今の悔しさも忘れないように、もう暫く走ります。リクエスト、ご意見募集中。 以上。/mitsui

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    コラム No. 15

    損害?/会社と個人の新しい関係 先日、「従業員のインターネット私用がもたらす損害についての試算」という記事が流れた。「勤務時間中に毎週約1時間、私用にインターネットを利用している」という情報と時給等から、日本全体で年間1兆7,000億円の「損害」と試算した。 社員の私的ネット利用は損害であるのか。いや、そもそも私的利用って何なのだろう。会社の全部署については語れないが、少なくともWeb開発に関わる部隊には、上記の試算は奇異に映るのではないだろうか。少なくとも私にはそうだ。 Webに関わる者の醍醐味の一つは、従来経営層レベルのみがタッチしてきた部分に、一介のデザイナやエンジニアが一足飛びに参画できることだろう。会社や製品をどのように見せるのか、そのためにはどのような戦略的仕掛けを打てるのか、どのよな結果だったのか。そのサイト開発に関わった者ならば誰もがある程度見聞きするチャンスを得る。他の人たちよりも少し早く。但し、社内からの目ではなく社外の目で見ることも要求される。 そのためには、Web開発者は日頃何をしているのだろう。できる限り多くのサイトを訪れる。可能な限りの最新情報入手を試みる。時間が許す限り様々なインターフェースを試す。写真満載の雑誌も読見漁るし、人ごみのファッションにも目を配る….等々。 それはエンジニアが全てのコードを見たいと言い切るのに似ているし、DBスペシャリストが全てのパフォーマンスデータに興味を持つのと似ている。しかし、エンジニア等のそれが仕事に見えるのに対して、Web開発者のそれは仕事に見えないことが多々ある。 できる限り多くののサイト 勿論フィルタリングソフトで拒絶されるサイトも含む。実際、少なくとも1997年頃は有能なサイト開発者の多くはアダルトサイトを研究していたはずだ。大規模モールの初期時代、余りにお馬鹿なナビゲーションのはびこる中、アダルトサイトの作りは感動的だった。家庭用ネットがまだまだか細い時代である、鮮明画像を見たいなら会社が一番の場所である。しかし、上司や同僚の目がある。大抵の画面には「上司が来たぞ」ボタンがあり、それをクリックするとさも仕事のような画面に切り替わる仕掛けがあった。切り替わったとき、まだロード中のGIFがあっては画面を睨んでいる姿が不自然なので、最初のタイミングで画像はプリロードされていた。見る側の心理を熟知しつつ、それへの気配りも忘れない。モール系以外で大きな資金が動いたのはこの分野だけだったろうから、本当に有能な方が集結していたのだと思う。JavaScriptの勉強をしたのも、こうしたサイトだった。勿論人目を忍んで。 可能な限りの最新情報入手 自分の嗜好にずれない限り可能な限りの無料mailマガジンを登録する。申し訳ないが全ては読まない。メーラーの振り分け機能を用いて、特定のキーワードに引っかかったものだけを目立つようにする。それでも読む読まないはその時の仕事の過密さ次第。追われるようには読まない。気に入ったサイトの定点観測もする。アイデアに詰まると、ブラブラと更新されていないのを承知でも訪ねて行く。行きつけの店みたいで落ち着く。 勿論ネットだけじゃない。雑誌も見るし、雑踏の中でも気になるモノにはアンテナを張る。例えば渋谷に仕事に行ったら、目的地までの間に何人iPodを耳につけていたか等。テレビを見てても、使われているマシンのメーカが気になる。余りにMacが多ければ、タイアップしているのかとも考える。 様々なインターフェースの試用 懸賞サイトも定点観測のようなものだ。どのような入力項目を要求してくるのか。入力させ方の配慮はどうか。どこまで自動化でサポートしてあげるべきか。自分自身が何を「親切」だと感じるか。戦略的な匂いを感じる設問に唸るときもある。名前の入力の所では、IMの学習機能を考慮して、「読み」を漢字の先に入力させる所もある。辞書を引けば分かることをウダウダと入力させる所もあるし、全角半角をユーザに強いて入力させる所もある。自分がどれ程苛つくか測定する。自分で体感してみないと分かりようがないし、提案もできない。 こんなアンテナを張っている人と仕事をすると色々と話が早い。アンケートを作るとなると、どこどこのサイトのあの機能が良いよね、ここにはあっちのサイトで見たやつ。そんな会話だけで概要設計ができる。都道府県のプルダウンメニューも、申し訳ないがソースを見てそこだけ頂いてしまうのでタイピングの手間も省かせてもらえる。時々不思議なほど私が良いと思うモノを、彼や彼女が良いと思っている時があり、まるで同郷の友に会った気がする。そんなフィット感は確かに稀である。でもその稀な場合に物事が加速するように準備する。 さて、これらは仕事なんだろうか。これが仕事だとしたら、私の私生活はかなり会社から「損害」を受けていることになる。上記の習性はどう考えても勤務時間内だけの話では収まらないからだ。子供と遊んでいても、頭の隅っこではアイデアを練っているし、子供にTVゲームを教えてもらっていても、そのインターフェースに感心しつつも何かに応用できないかと考えている。そう、このコラムだって。 では、それを私は「損害」と感じているか。NOである。妻はある程度疎ましく思っている気がするが、私はこの状況を楽しんでいる。私はこのWebの世界にハマって自分が豊かになっていることを実感している。給料面ではない、色々な世界に接することで、だ。そしてそれはワークホーリック的な感覚だけでなく、自分が得たものを家庭にも回帰させているつもりだ。 社内での活動に、私人公人の差があるのか分からないが。「損害」という言葉を使った時点で、会社と私生活とが敵対関係にあるようなニュアンスを感じる。でも、本質的に仕事は楽しんでやるべきだ。会社も社員が楽しみ豊かになることをもっと積極的に奨励すべきではないだろうか。 ネットの仕事に就いて、楽しいことばかりではない。上記の習性もはたから見れば楽しんでいるように見えるかもしれないが、アイデアというものに畏怖の念に近いものを感じているから身についたものだ。アイデアは決まった手順を踏めば湧き出でるものではない。人を惹きつける「何か」を生み出すのは、やはり努力だと思っている。だから飢餓感を持って回りを探し回るのだ。 サイト開発者は、新しい会社と社員との関係のパイオニアだと思う。どこまでが仕事か分からない領域に踏み込んでいるからだ。会社に「拘束」されているという感覚からの離脱。会社が自分をどう活かすのか、自分が会社をどう活かすのか。こうした文字からでは余りにも理想論に見えるかもしれないが、Webの可能性を見るとまんざら可能性がない訳じゃない。 ITのおかげで、営業先に直行直帰する営業マンも増えてきた。ケータイを使って待ち時間を減らす長距離トラック運転手の話も聞く。働き方に変化が来ているのだと思う。mailの最後に必ず「職住接近」と書いていた先輩が居た。そうなっている。無論モラルは必要だ。アナーキーで言い訳じゃない。Web開発者であることが理由で好き放題できる訳じゃない。でも必要なのは「新しい」モラルだろう。 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(聖書/マタイ9:17) 以上。/mitsui 従業員のネット私用、日本企業に年間1兆7,000億円の損害~Websenseが試算 http://www.watch.impress.co.jp/internet/www/article/2002/0918/websense.htm

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    コラム No. 16

    時間 インターネット時代に入って、私達は何を得て何を失ったのだろう。….どちらも「時間」ではないだろうか。 特定の情報が欲しいとする。ネット前なら、図書館や人づてに情報の尻尾を嗅ぎまわり、全体像に迫っていく。ネット後なら、少しのキー操作で殆どのことが事足りる。直接誰かに会いに行くことは出来なくても、その誰かの「言葉」に辿り着く時間も短縮された。 特定の情報を記録したいと思う。どうせ書くなら、誰かにも見てもらおうと思う。力の入れようも変わるが、やりがいが生まれる。見知らぬ誰かに評価される喜びは、体験したものでないと分からないだろう。情報を残す時間も大幅に短縮された。いやこれはネットがなければ不可能に近いものだった。市井の人のコメントに全くの他人が触れることができるのだ。 失った時間もある。今までだと帰宅して新聞を開き、その印刷された時間までのニュースが束になって形として存在した。帰宅前に確認したニュースサイトが家で待っている新聞よりも未来を報じてくれている。結果を知ってから、その発端を新聞で見ることになる。新聞報道に物足りなさを感じたりもする。そもそも新聞を味わう時間が減っている。 好きな選手の試合など、録画を見るまで、絶対に結果を知るまいと意地になっていると、そうした情報に触れることすらできないこともある。日々蓄積される情報に押し流されて、システムが決めた規定数を超えるとリストに載らない。最新の情報が追加される毎に、多くの情報が奥へ奥へと消えていく。同時にそれを味わう時間も、ネットの中に消えていく。まるで、何かに追われるかのように。 それでも相対的には、時間を得た気がする。失った時間は気がつかないのでカウントしようもない。人参を目の前にぶら下げられたようにも感じつつ、このドッグイヤーを駆け抜ける。時間を「得」したように思い込みながら。 時間を得た分、時間を浪費させられるものに寛容さがなくなってきている。迷子にさせられるWebサイト。どこをクリックすればよいか考えさせるデザイン。有効利用しそうにもないアンケートの設問。ダウンロードにやたら時間がかかる何か。毎回メニューの中の奥のほうを探さないと出てこない機能。必要な情報を得るまでに何回も単なる挨拶メールを必要とする担当者。イライラする。 時間の流れる速度が部分的に加速されてるのに、その部分と何かをつなぐ場面で今までと同じように時間がゆったりとまったりと流れている。断続状に「動く歩道」が配置されているような感じ。そんな道が延々と続いている。しかも不規則でリズムもつかめないように。そっちが普通なんだと頭で理解しても、なにか不快感が伴う。 ネットに慣れ親しんだ者にとって、時間がキーワードであるならば、情報へのアクセス時間を基準に、そのサイトの優劣がつけられるだろう。単純にクリック数だけじゃなく、ボタンの大きさや総合デザインも考慮して。時間をキーワードにしたら、もう少し客観的なユーザビリティの判断基準ができるのかもしれない。 時間が価値を持っているのは、仮想空間だけじゃない。パソコン等が分かり易い。新版のリリースは早い。それなりの価格のマシンを買うと、もう少し待てば良かったと誰もが思わされる。新版はやはり魅力的な機能を増しているものだ。その新旧のマシンの間にどんな価値の差があるのだろう。きっと、「早く使った」という時間が価値なのだ。1月の大きな展示会で新製品が発表されるのを待つのと、型落ちを了解してクリスマス前に購入して使い始めるのを、どちらが価値あるとするか。それは時間の価値化の問題だとも言える。 さて、開発はどうだろう。開発の時間はこの数年間で短縮されたのか。コーディング作業などピンポイントでは短縮された。でも全体的には余りそうは思えない。何がネックなのだろう。連携だと思う。ツールとツールの連携。思考と現実との連携。人と人との連携。情報とデータの連携。飛躍的に加速されたものがあるだろうか。 Ridualを見せると、ほとんどの場合、「それ、○○でできるよ」という反応が返ってくる。○○は既存のHTMLエディタであったり、オフィス製品であったりだ。でも、私には断続的動く歩道に見える。部分が加速されても、全体としてはそうではない。 機能を説明するたびに、それは○○で、それは△△で、それは□□で、とツールの名前が並ぶ。で、その○○と△△と□□を連続して使って、使いやすいでしょうか? 手に馴染んだツールは快適である、というのが大抵の答えだ。それには賛成だ。出てくるツールは殆ど全て私も好きなツールだ、その幾つかは休日にも何時間もいじっていて楽しいものもある。しかし、仕事上ロスしている時間が存在してることには気がついている。そのツールを使うことに目的があるのではない、目的は他のところにある。そして、その目的は1つのツールだけで達成できるものでないし、1人で辿り着けるものでもない。そこそこに情報が記述できれば、他ツールとの連携のほうが重要であるシーンは多々あるのではないだろうか。 時間や連携といった言葉を中心に、開発作業を見直して、その最大公約数的な機能を1つのツールに凝縮したい。既存製品と共存しつつ。 以上。/mitsui

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    コラム No. 17

    競合調査/サイト解析/育成 サイト開発をする際、勿論競合サイトや直接は接点がなくても参考になるサイトにはお邪魔する。色々とページを繰りながら、感心したり、イライラしたり、勝てるなぁと自惚れたり。時には、こりゃ勝てんわ、と思うことも。 それでも、そのサイト観察のレポートを書けと言われて、大抵困る。全体印象として、どんなモノかは頭に入った。これから作るべきサイトのイメージも大体出来上がった。でも文字にしにくい。漠然としたイメージが、ただ漠然と頭の中にある。ただし、開発が成功するとき、それはその漠としたイメージからズレないで進めたときだと思っている。 それは単に文字化能力や説明能力の欠如しているだけかもしれないが、自分が訪れたサイトの記憶の仕方に鍵があるように思う。皆でサイト評論会を開くとき、その名やURLを聞いただけで、頭の中にその漠としたイメージが広がる。具体的な像ではなく、どちらかと言うと色のような感じ。色の名前を言いはしないが、同じ触覚を持っている人と話すとき、その受け取った色合いの誤差が少ない気がする。 でも、そんな曖昧な感覚レポートを提出する訳にはいかない。このサイトは○○色です、と言っても意味がない。だから比較しやすい項目を探す。全体から受ける印象は、派手か、地味か、サイバーか、クラシックか。できるだけ提出先の語感と同じになるように苦労しながら。 それでも、自分が相手だとして、自分が提出した資料だけを見て、そのサイトを訪れていない時に、厳密に言えばスナップショットも見ないうちから、正しい意識合わせができるかと言うと自信がない。正直いって、URLを明記する以上、こちらのコメントを参考にしながら訪れてくれることを期待している。 先日Ridualを使いながら、また新たな発見をした。競合サイト分析。自動ダウンロードを先に使っても、最初から手で書いても良いのだが、サイト全体の印象をあのインターフェースで結構忠実に描けることに気がついた。 手で描く場合、入り口のページから順々にリンクで飛ばされるたびに画面上にページを置く。置いたら、参照しているページのタイトルを入力する。ただそれを繰り返す。ただただ単純作業だ。しかし、自分の印象をそのページの大きさや色で記録できる。印象深いページや手のこんだページは自然と大きくなる。そして全体あるいはそれなりの数を見渡したあと、見栄えを調整するために、再度そのサイズ調整を行う。これよりもそっちを大きくしよう。その時に、不思議と最初に見た印象と、その後に見たページとの間で色々と比較を行っている。 出来上がった画面は、基本的に情報の経路だけが浮き彫りになっている。記述の際にディレクトリ構造も意識しながら書き写すと、開発者の意図も見える。ここでメンテナンスを考えている。ここはどうも後から突貫工事で作ったみたいだ。ファイル名にしてもそれなりに分かり易さをベースにしているので、推測できるものが多い。SVGで出力して、Illustratorで開く、ヘッダーとフッターを加え、Ridualでは行いにくい微調整を加える。資料が出来上がる。 コストを考えると、ここまで丸々外注することも可能だ。差別する訳ではないがバイト君でも一向に構わない。サイト全体を見渡せと言われたら時間を考えて億劫になっても、概略図的地図が渡されたら、見るべきものが分かる分だけ進みやすい。迷いそうな所が見えている分だけ、イラつかない。 サイトによっては人間不要でここまで可能だ。ドメインが複数に分かれていないことや動的部分がそれなりに解析できるという条件で、ダウンローダが使える。URLを入力してリーターンを押したらそのままほったらかし。それなりの時間をかければ一生懸命ページをダウンロードしてくれる。後は、インポートしアナライズ。サイトマップもサイトレポートも出来上がる。あとはローカルに落としたページを辿って、ゾーンパネルで印象に従って大きさや色という重みを付けていく。ページ数が多くても、マシンスペックが高ければそれなりに快適で、鼻歌交じりの作業だ。 再構築するサイトの話を聞き、その競合サイトを幾つか選んで、二~三人で半日。A3シートが数枚。同業種のサイト構成図が出来上がっている。しかもそれなりに綺麗に。少し手を加えるだけで、そのままクライアントに出しても良いものもある。 まだ再構築プランを出す話なので、自作のページはひとつもない。かなり冷静に構造比較ができる。冷静な分、こんなのありかなぁ、あんなのは…。アイデアも出る(こともある)。 Ridualが生成するサイト構成図はどれも、ノッペラボウなので、グラフィックの趣味も混じらない。情報の流れに集中して考えることができた。以前、表現力がないと話したが、制限もまんざら悪くない。できることが決まっているから、その中で工夫する。 出来上がったサイト構成図も眺めながら、こういったモノが私なりのサイトの印象だったんだろうかと改めて思う。実はこうして考えていたんだろうかと。自分の頭の中を見ているようで、面白くもあり、恥ずかしい気もする。そして、この図は後々まで、ディスクがクラッシュするまで残る。適切な場所に置けば、今後色々な人に見られていく情報に成る。なんだか緊張する。 開発者が言うのも変だか、Ridualは奥が深い。エンジニア系の会社にいるとどうしても解析系にスポットが当たるが、どうして立派に上流系でも役に立つ。 しかももう一つ効用を確信した。ただサイトを描きなぞるだけの作業をしても、作業者はそれなりの意見を持てる。何が不便で何が便利か。バイト君に頼んでも、そのバイト君はその作業が終わった時点で、何らかの意見を持てる可能性が高い。大きさと色だけのパラメータしかないが、そこには意図があるから変更されている。その意図を聞いてみると興味深い。記録する方法が与えられれば、その記録を工夫するのが人間だ。これは、サイトの構造を考えるという訓練と呼べるかもしれない。 同じ字を何度も何度も書かされて、遂に嫌いになってしまった習字を思い出す。あのまま文句を言わず書き続けたなら、私でも何かを見つけたかもしれない。いつかRidualの書記係りのバイト君が、とんでもないインフォメーションアーキテクトになっているかもしれない。ワクワクしてきた。 以上。/mitsui

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    コラム No. 18

    mail 「 mail ではニュアンス伝わらないでしょ?」と、また声がする。どうも mail は好意的に見られない傾向がある。特に年配の方に。便利なんだけどねぇ、と前置きされれば良いほうだ。 手紙が普及しだした頃、手紙もそんな風に悪口をたたかれたのだろうか。話はやはり会ってこそでしょう。それからどれほど経ったのだろう。手紙は人を感動させる最有力アイテムの1つだ。mail が広まるにつれ、今まで以上に、肉筆の手紙はありがたいものとして語られている気がする。そして、mail は味気ない、と。 先日、ジミーカーター氏のノーベル平和賞受賞時に、聞いた話。海兵学校時代、それまでの優秀な成績が目に見えて悪くなる。教官が若かりし彼を呼び出し、最善を尽くしたのかと問う。恥じた彼は、それから何事にも最善を尽くすスタイルに変わって行く。優し過ぎるとか優柔不断だというネガティブな評価もあるが、善悪の二元論で即武力行使を考えるよりもずっと魅力的だ。 突飛に感じるだろうけれど、「最善」がキーワード。mail でニュアンスが伝わらないと断言する方に、聞きたい。「最善を尽くしたんですか?」。物事がどこまで使えるか有効に機能するかを見定める前に、多くの人は好みで判断する。私もする。余り他人を責めれない。しかし、問い直すことはする。できることは全てやった上で、その結論か、と。 mail でコミュニケーションを取りたがらない御仁は、mail に感動したこともなければ、努力も余りしていないのではなかろうか。 私をWebの世界から離れられないようにしているのは、やはり感動だ。感動するから使うし、使っていて楽しいし、更に使い込む。 mail もそうだろう。私には忘れられない mail が多々ある。幾つかはDBに入れて保存している。メーラーの中に埋もれさせるには勿体無い。それは、直筆の手紙に勝るとも劣らない。ただ便利だとかだけじゃない。励まされたこともあるし、落ち込ませてくれたものもある。涙がこぼれそうにさせられた郷愁もあるし、驚かされたクールなのもある。更に大抵は自分自身の mail とその返事というような連作である。自分の気持ちを正直に書き、相手からピュアな応答をもらえる喜び。時間と言うファクターもある。こんな深夜に長文を書いてくれたのか。直筆手紙にしかないモノも多いが、mail にしかないモノも多々ある。 一度感動するとはまり易い性質なのだろう。できるだけ飾らず mail するようになった。それは簡単にできるものではない。努力している。どう書いたら伝わるのだろう。だから一生懸命一日中 mail 書いているときもある。てっとも疲れる。その結果誤解でもされた日には落ち込む。ぐったり。 mail は古くて新しいコミュニケーションも育てている。成人した孫娘がお祖母ちゃんに毎日のように mail していることが新聞に出ていた。手軽だし、手紙では書けないことが書ける、と。都会の街角で孫が親指で mail する、お祖母ちゃんが畑で腰をなでながらそれを読む。勿論その2人の間にその素地はあったのだろうが、mail が無ければ実現していない関係とは思う。 mail に親密感をより感じるのは、当然ながら、その先に繋がっている人との距離を短く感じるからだ。上述のような話は、余り仕事の話ではないだろうと反論されるかもしれない。でも、仕事で感動したいのも一方である。きっと、誰にでも。主人公が仕事上でスケールの大きい人に会い、感動し、感化されるような話は、ドラマに良くある。でも、そんな話は現実にあってもいいし、実際あるものだ。それ仲立ちを IT がやっても悪くない。物事が正確に、かつ感動的に伝達され、仕事が回ったら、ハッピーこの上ない。 もう一つ気になることがある。mail 嫌いの電話好きは、得てして電話でもニュアンスを伝えてくれない、と感じる点だ。なんとなく立場とか地位とか、そんなものへの配慮を期待しているかのような態度を感じる人もいる。余り考えないで電話してきて、こちらの応答に応じて考え始める人も居る。なんだか、コミュニケーションに対して手を抜いている。 そして、実は、ことは mail だけじゃない。サイト作りでも、なんだか変に達観している人に会うことがある。情報提供を諦めていると感じてしまうサイトがある。所詮サイトで正確に情報や想いを伝えることはできないでしょ、とハナから決めてかかっているサイト。最善も人事も尽くさずに結論を出している担当者。アイデアを考えもしないで、成功事例をねだる関係者。サイトのアイデアや仕様を再考せずに現場に投げて、現場の力量にオンブにダッコになってしまう自分…。 立ち止まって、考えて、努力するべき時代に還ってきているのかもしれない。当たり前のことも当たり前にしていない時が増えてきていないだろうか。mail はその象徴に思える。mail 文化が始まって日が浅い。まだ文化と呼べるほど成熟していない。けれど、想いや情報を文字にして相手に送るのは最近始まったことじゃない。そして、mail は今後数年間必要不可欠な情報ルートであることは間違いない。それならば、有効的に活用すべく努力しても良い。道ができても、走る車が整備されていなければ危険だ。 夜、同じ「島」の電話が鳴る。考え事を止めて、手を止めて、受話器を取る。「○○さん居ますか」。帰宅したことを告げ伝言を残すかと問う。「あ、結構です、mailしますので」。う~ん、最初から mail してはどうでしょう。とは言えない、言葉を飲み込む。 また電話が鳴る。社会人として電話は取れと散々教わってきたが、まだ身につかない。だって、右手はマウス、左手はショートカットの真っ最中で、CtrlとAltを押している。「折角選択した領域を無駄にする程の大事な話なんだろうな」と心の中で叫ぶ。 以上。/mitsui ps. カーター氏は、大統領時代でさえ、彼は自分が所属する教会の教会学校で教え、会堂を掃除する。そして、それは今でもそうなのだそうだ。ちょっとできることじゃない。

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