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    コラム No. 16

    時間 インターネット時代に入って、私達は何を得て何を失ったのだろう。….どちらも「時間」ではないだろうか。 特定の情報が欲しいとする。ネット前なら、図書館や人づてに情報の尻尾を嗅ぎまわり、全体像に迫っていく。ネット後なら、少しのキー操作で殆どのことが事足りる。直接誰かに会いに行くことは出来なくても、その誰かの「言葉」に辿り着く時間も短縮された。 特定の情報を記録したいと思う。どうせ書くなら、誰かにも見てもらおうと思う。力の入れようも変わるが、やりがいが生まれる。見知らぬ誰かに評価される喜びは、体験したものでないと分からないだろう。情報を残す時間も大幅に短縮された。いやこれはネットがなければ不可能に近いものだった。市井の人のコメントに全くの他人が触れることができるのだ。 失った時間もある。今までだと帰宅して新聞を開き、その印刷された時間までのニュースが束になって形として存在した。帰宅前に確認したニュースサイトが家で待っている新聞よりも未来を報じてくれている。結果を知ってから、その発端を新聞で見ることになる。新聞報道に物足りなさを感じたりもする。そもそも新聞を味わう時間が減っている。 好きな選手の試合など、録画を見るまで、絶対に結果を知るまいと意地になっていると、そうした情報に触れることすらできないこともある。日々蓄積される情報に押し流されて、システムが決めた規定数を超えるとリストに載らない。最新の情報が追加される毎に、多くの情報が奥へ奥へと消えていく。同時にそれを味わう時間も、ネットの中に消えていく。まるで、何かに追われるかのように。 それでも相対的には、時間を得た気がする。失った時間は気がつかないのでカウントしようもない。人参を目の前にぶら下げられたようにも感じつつ、このドッグイヤーを駆け抜ける。時間を「得」したように思い込みながら。 時間を得た分、時間を浪費させられるものに寛容さがなくなってきている。迷子にさせられるWebサイト。どこをクリックすればよいか考えさせるデザイン。有効利用しそうにもないアンケートの設問。ダウンロードにやたら時間がかかる何か。毎回メニューの中の奥のほうを探さないと出てこない機能。必要な情報を得るまでに何回も単なる挨拶メールを必要とする担当者。イライラする。 時間の流れる速度が部分的に加速されてるのに、その部分と何かをつなぐ場面で今までと同じように時間がゆったりとまったりと流れている。断続状に「動く歩道」が配置されているような感じ。そんな道が延々と続いている。しかも不規則でリズムもつかめないように。そっちが普通なんだと頭で理解しても、なにか不快感が伴う。 ネットに慣れ親しんだ者にとって、時間がキーワードであるならば、情報へのアクセス時間を基準に、そのサイトの優劣がつけられるだろう。単純にクリック数だけじゃなく、ボタンの大きさや総合デザインも考慮して。時間をキーワードにしたら、もう少し客観的なユーザビリティの判断基準ができるのかもしれない。 時間が価値を持っているのは、仮想空間だけじゃない。パソコン等が分かり易い。新版のリリースは早い。それなりの価格のマシンを買うと、もう少し待てば良かったと誰もが思わされる。新版はやはり魅力的な機能を増しているものだ。その新旧のマシンの間にどんな価値の差があるのだろう。きっと、「早く使った」という時間が価値なのだ。1月の大きな展示会で新製品が発表されるのを待つのと、型落ちを了解してクリスマス前に購入して使い始めるのを、どちらが価値あるとするか。それは時間の価値化の問題だとも言える。 さて、開発はどうだろう。開発の時間はこの数年間で短縮されたのか。コーディング作業などピンポイントでは短縮された。でも全体的には余りそうは思えない。何がネックなのだろう。連携だと思う。ツールとツールの連携。思考と現実との連携。人と人との連携。情報とデータの連携。飛躍的に加速されたものがあるだろうか。 Ridualを見せると、ほとんどの場合、「それ、○○でできるよ」という反応が返ってくる。○○は既存のHTMLエディタであったり、オフィス製品であったりだ。でも、私には断続的動く歩道に見える。部分が加速されても、全体としてはそうではない。 機能を説明するたびに、それは○○で、それは△△で、それは□□で、とツールの名前が並ぶ。で、その○○と△△と□□を連続して使って、使いやすいでしょうか? 手に馴染んだツールは快適である、というのが大抵の答えだ。それには賛成だ。出てくるツールは殆ど全て私も好きなツールだ、その幾つかは休日にも何時間もいじっていて楽しいものもある。しかし、仕事上ロスしている時間が存在してることには気がついている。そのツールを使うことに目的があるのではない、目的は他のところにある。そして、その目的は1つのツールだけで達成できるものでないし、1人で辿り着けるものでもない。そこそこに情報が記述できれば、他ツールとの連携のほうが重要であるシーンは多々あるのではないだろうか。 時間や連携といった言葉を中心に、開発作業を見直して、その最大公約数的な機能を1つのツールに凝縮したい。既存製品と共存しつつ。 以上。/mitsui

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    コラム No. 17

    競合調査/サイト解析/育成 サイト開発をする際、勿論競合サイトや直接は接点がなくても参考になるサイトにはお邪魔する。色々とページを繰りながら、感心したり、イライラしたり、勝てるなぁと自惚れたり。時には、こりゃ勝てんわ、と思うことも。 それでも、そのサイト観察のレポートを書けと言われて、大抵困る。全体印象として、どんなモノかは頭に入った。これから作るべきサイトのイメージも大体出来上がった。でも文字にしにくい。漠然としたイメージが、ただ漠然と頭の中にある。ただし、開発が成功するとき、それはその漠としたイメージからズレないで進めたときだと思っている。 それは単に文字化能力や説明能力の欠如しているだけかもしれないが、自分が訪れたサイトの記憶の仕方に鍵があるように思う。皆でサイト評論会を開くとき、その名やURLを聞いただけで、頭の中にその漠としたイメージが広がる。具体的な像ではなく、どちらかと言うと色のような感じ。色の名前を言いはしないが、同じ触覚を持っている人と話すとき、その受け取った色合いの誤差が少ない気がする。 でも、そんな曖昧な感覚レポートを提出する訳にはいかない。このサイトは○○色です、と言っても意味がない。だから比較しやすい項目を探す。全体から受ける印象は、派手か、地味か、サイバーか、クラシックか。できるだけ提出先の語感と同じになるように苦労しながら。 それでも、自分が相手だとして、自分が提出した資料だけを見て、そのサイトを訪れていない時に、厳密に言えばスナップショットも見ないうちから、正しい意識合わせができるかと言うと自信がない。正直いって、URLを明記する以上、こちらのコメントを参考にしながら訪れてくれることを期待している。 先日Ridualを使いながら、また新たな発見をした。競合サイト分析。自動ダウンロードを先に使っても、最初から手で書いても良いのだが、サイト全体の印象をあのインターフェースで結構忠実に描けることに気がついた。 手で描く場合、入り口のページから順々にリンクで飛ばされるたびに画面上にページを置く。置いたら、参照しているページのタイトルを入力する。ただそれを繰り返す。ただただ単純作業だ。しかし、自分の印象をそのページの大きさや色で記録できる。印象深いページや手のこんだページは自然と大きくなる。そして全体あるいはそれなりの数を見渡したあと、見栄えを調整するために、再度そのサイズ調整を行う。これよりもそっちを大きくしよう。その時に、不思議と最初に見た印象と、その後に見たページとの間で色々と比較を行っている。 出来上がった画面は、基本的に情報の経路だけが浮き彫りになっている。記述の際にディレクトリ構造も意識しながら書き写すと、開発者の意図も見える。ここでメンテナンスを考えている。ここはどうも後から突貫工事で作ったみたいだ。ファイル名にしてもそれなりに分かり易さをベースにしているので、推測できるものが多い。SVGで出力して、Illustratorで開く、ヘッダーとフッターを加え、Ridualでは行いにくい微調整を加える。資料が出来上がる。 コストを考えると、ここまで丸々外注することも可能だ。差別する訳ではないがバイト君でも一向に構わない。サイト全体を見渡せと言われたら時間を考えて億劫になっても、概略図的地図が渡されたら、見るべきものが分かる分だけ進みやすい。迷いそうな所が見えている分だけ、イラつかない。 サイトによっては人間不要でここまで可能だ。ドメインが複数に分かれていないことや動的部分がそれなりに解析できるという条件で、ダウンローダが使える。URLを入力してリーターンを押したらそのままほったらかし。それなりの時間をかければ一生懸命ページをダウンロードしてくれる。後は、インポートしアナライズ。サイトマップもサイトレポートも出来上がる。あとはローカルに落としたページを辿って、ゾーンパネルで印象に従って大きさや色という重みを付けていく。ページ数が多くても、マシンスペックが高ければそれなりに快適で、鼻歌交じりの作業だ。 再構築するサイトの話を聞き、その競合サイトを幾つか選んで、二~三人で半日。A3シートが数枚。同業種のサイト構成図が出来上がっている。しかもそれなりに綺麗に。少し手を加えるだけで、そのままクライアントに出しても良いものもある。 まだ再構築プランを出す話なので、自作のページはひとつもない。かなり冷静に構造比較ができる。冷静な分、こんなのありかなぁ、あんなのは…。アイデアも出る(こともある)。 Ridualが生成するサイト構成図はどれも、ノッペラボウなので、グラフィックの趣味も混じらない。情報の流れに集中して考えることができた。以前、表現力がないと話したが、制限もまんざら悪くない。できることが決まっているから、その中で工夫する。 出来上がったサイト構成図も眺めながら、こういったモノが私なりのサイトの印象だったんだろうかと改めて思う。実はこうして考えていたんだろうかと。自分の頭の中を見ているようで、面白くもあり、恥ずかしい気もする。そして、この図は後々まで、ディスクがクラッシュするまで残る。適切な場所に置けば、今後色々な人に見られていく情報に成る。なんだか緊張する。 開発者が言うのも変だか、Ridualは奥が深い。エンジニア系の会社にいるとどうしても解析系にスポットが当たるが、どうして立派に上流系でも役に立つ。 しかももう一つ効用を確信した。ただサイトを描きなぞるだけの作業をしても、作業者はそれなりの意見を持てる。何が不便で何が便利か。バイト君に頼んでも、そのバイト君はその作業が終わった時点で、何らかの意見を持てる可能性が高い。大きさと色だけのパラメータしかないが、そこには意図があるから変更されている。その意図を聞いてみると興味深い。記録する方法が与えられれば、その記録を工夫するのが人間だ。これは、サイトの構造を考えるという訓練と呼べるかもしれない。 同じ字を何度も何度も書かされて、遂に嫌いになってしまった習字を思い出す。あのまま文句を言わず書き続けたなら、私でも何かを見つけたかもしれない。いつかRidualの書記係りのバイト君が、とんでもないインフォメーションアーキテクトになっているかもしれない。ワクワクしてきた。 以上。/mitsui

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    コラム No. 18

    mail 「 mail ではニュアンス伝わらないでしょ?」と、また声がする。どうも mail は好意的に見られない傾向がある。特に年配の方に。便利なんだけどねぇ、と前置きされれば良いほうだ。 手紙が普及しだした頃、手紙もそんな風に悪口をたたかれたのだろうか。話はやはり会ってこそでしょう。それからどれほど経ったのだろう。手紙は人を感動させる最有力アイテムの1つだ。mail が広まるにつれ、今まで以上に、肉筆の手紙はありがたいものとして語られている気がする。そして、mail は味気ない、と。 先日、ジミーカーター氏のノーベル平和賞受賞時に、聞いた話。海兵学校時代、それまでの優秀な成績が目に見えて悪くなる。教官が若かりし彼を呼び出し、最善を尽くしたのかと問う。恥じた彼は、それから何事にも最善を尽くすスタイルに変わって行く。優し過ぎるとか優柔不断だというネガティブな評価もあるが、善悪の二元論で即武力行使を考えるよりもずっと魅力的だ。 突飛に感じるだろうけれど、「最善」がキーワード。mail でニュアンスが伝わらないと断言する方に、聞きたい。「最善を尽くしたんですか?」。物事がどこまで使えるか有効に機能するかを見定める前に、多くの人は好みで判断する。私もする。余り他人を責めれない。しかし、問い直すことはする。できることは全てやった上で、その結論か、と。 mail でコミュニケーションを取りたがらない御仁は、mail に感動したこともなければ、努力も余りしていないのではなかろうか。 私をWebの世界から離れられないようにしているのは、やはり感動だ。感動するから使うし、使っていて楽しいし、更に使い込む。 mail もそうだろう。私には忘れられない mail が多々ある。幾つかはDBに入れて保存している。メーラーの中に埋もれさせるには勿体無い。それは、直筆の手紙に勝るとも劣らない。ただ便利だとかだけじゃない。励まされたこともあるし、落ち込ませてくれたものもある。涙がこぼれそうにさせられた郷愁もあるし、驚かされたクールなのもある。更に大抵は自分自身の mail とその返事というような連作である。自分の気持ちを正直に書き、相手からピュアな応答をもらえる喜び。時間と言うファクターもある。こんな深夜に長文を書いてくれたのか。直筆手紙にしかないモノも多いが、mail にしかないモノも多々ある。 一度感動するとはまり易い性質なのだろう。できるだけ飾らず mail するようになった。それは簡単にできるものではない。努力している。どう書いたら伝わるのだろう。だから一生懸命一日中 mail 書いているときもある。てっとも疲れる。その結果誤解でもされた日には落ち込む。ぐったり。 mail は古くて新しいコミュニケーションも育てている。成人した孫娘がお祖母ちゃんに毎日のように mail していることが新聞に出ていた。手軽だし、手紙では書けないことが書ける、と。都会の街角で孫が親指で mail する、お祖母ちゃんが畑で腰をなでながらそれを読む。勿論その2人の間にその素地はあったのだろうが、mail が無ければ実現していない関係とは思う。 mail に親密感をより感じるのは、当然ながら、その先に繋がっている人との距離を短く感じるからだ。上述のような話は、余り仕事の話ではないだろうと反論されるかもしれない。でも、仕事で感動したいのも一方である。きっと、誰にでも。主人公が仕事上でスケールの大きい人に会い、感動し、感化されるような話は、ドラマに良くある。でも、そんな話は現実にあってもいいし、実際あるものだ。それ仲立ちを IT がやっても悪くない。物事が正確に、かつ感動的に伝達され、仕事が回ったら、ハッピーこの上ない。 もう一つ気になることがある。mail 嫌いの電話好きは、得てして電話でもニュアンスを伝えてくれない、と感じる点だ。なんとなく立場とか地位とか、そんなものへの配慮を期待しているかのような態度を感じる人もいる。余り考えないで電話してきて、こちらの応答に応じて考え始める人も居る。なんだか、コミュニケーションに対して手を抜いている。 そして、実は、ことは mail だけじゃない。サイト作りでも、なんだか変に達観している人に会うことがある。情報提供を諦めていると感じてしまうサイトがある。所詮サイトで正確に情報や想いを伝えることはできないでしょ、とハナから決めてかかっているサイト。最善も人事も尽くさずに結論を出している担当者。アイデアを考えもしないで、成功事例をねだる関係者。サイトのアイデアや仕様を再考せずに現場に投げて、現場の力量にオンブにダッコになってしまう自分…。 立ち止まって、考えて、努力するべき時代に還ってきているのかもしれない。当たり前のことも当たり前にしていない時が増えてきていないだろうか。mail はその象徴に思える。mail 文化が始まって日が浅い。まだ文化と呼べるほど成熟していない。けれど、想いや情報を文字にして相手に送るのは最近始まったことじゃない。そして、mail は今後数年間必要不可欠な情報ルートであることは間違いない。それならば、有効的に活用すべく努力しても良い。道ができても、走る車が整備されていなければ危険だ。 夜、同じ「島」の電話が鳴る。考え事を止めて、手を止めて、受話器を取る。「○○さん居ますか」。帰宅したことを告げ伝言を残すかと問う。「あ、結構です、mailしますので」。う~ん、最初から mail してはどうでしょう。とは言えない、言葉を飲み込む。 また電話が鳴る。社会人として電話は取れと散々教わってきたが、まだ身につかない。だって、右手はマウス、左手はショートカットの真っ最中で、CtrlとAltを押している。「折角選択した領域を無駄にする程の大事な話なんだろうな」と心の中で叫ぶ。 以上。/mitsui ps. カーター氏は、大統領時代でさえ、彼は自分が所属する教会の教会学校で教え、会堂を掃除する。そして、それは今でもそうなのだそうだ。ちょっとできることじゃない。

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    コラム No. 19

    羊羹と物語ともらった勇気 2002年11月20日、Macromedia DevCon Japan 2002。福井信蔵氏が「新しいパラダイムの中でのデザイン」と題して、Webサイトのデザインについて語る。 遅れたため最前列に通されて、氏のプレゼンを大画面で堪能できた。何よりも印象に残ったのは、「とらや」サイト。「引き算のデザイン」という項目で話されたが、これまでの和風を印象つける装飾をできる限り排除し、ただ「美味しそう」なサイトを目指したと語る。目の前に広がる画面には、会社ロゴ以外に明朝体の文字すらない。シンプルに、そして本当に美味しそうな和菓子の美しい写真。 氏は説明する。「うまそうなサイト」を目指した。訪れた人が一度でもここの羊羹を食べたことがあったらそれを思い出すことを目指した、と。けれど、その説明を聞く前に私の口の中にはヨダレが溢れてきた。何しろ最前列である。約四畳半程の大きさの羊羹(YOKAN)が目の前に広がっている。食べるのが惜しいと思うほど美しい。私は単純だから、秋の日に暖かな日差しが障子越しに映え、その畳の上で抹茶を戴いている風景まで頭の中に広がる。お湯が沸くあの香りってどんなのだっけ。竹筒に水を落として「コーン」と響くやつ、名前なんだっけ。最近ゆっくりと小豆(あずき)を味わってないなぁ。想いが広がる。信蔵氏が畳み掛ける、「打合せのときに和菓子を出してくれるんですが、それが涙が出るほどうまい」。唾を飲み込んでしまう。何故”とらや”がこのDevConに出展してないんだ、と腹まで立ってきた:-) 私みたいなのばかりがサイト訪問者なら楽かもしれないと思うほど、私は氏の術中に落ちている。そのサイトはトップこそFlashを使っているが、基本的には非常にシンプルなHTML。丹念に撮影された写真を、丹念にjpeg化して、丹念に配置しているだけ。それだけの「作り」が、私のような訪問者の頭に色々と語りかける。画面をクリックするたびに広がる和菓子の世界で、私は更に色んな物語を夢想する。 Webサイトを物語に例える話を昨夏に聞いた。Flash forward 2002、Paul Orchanian氏の「Storytelling with Flash」。ユーザを惹きつけるギミックを分かりやすく説明しつつ、子供が本読みをねだるのは良い物語には何度でも触れたいと思わせる力があるからだと語っていた。子供は同じ本を何度も何度もおねだりする。物語を暗記するほど知っていても、尚読んでくれるように頼んでくる。それは子供に限ったことではない。良い物語に触れた大人も再びその物語に触れたくなるものなんだ、と。サイト開発者やコンテンツ制作者への何とも力強いエールである。良い物語を雄弁に語りなさい、そうすればリピーターは現れます、そう言ってくれている。(MdN 2002.10月号p134参考) 余談だが、このセッションで、Paul氏は自分をインスパイアーした何人かのアーティストの名を挙げた。無論、「ユーゴ ナカムラ」の名も出る。その瞬間、何ともいえない感覚に囚われる。中村勇吾氏、Flash Forward 2001でスタンディングオベーションで迎えられた Flash 使い。私は、氏と接したのは数回のセッションだけだし、別に民族意識が強い訳ではないが、なんだか嬉しい。サクセスストーリーという認識ではなく、自分なりの想いを精一杯語り続けていること自体と、それに感化されている人たちの質と量が嬉しい。これも物語か。 物語と対比されるものに”技術”があるかもしれない。今Webの世界には、.netやWebサービスといった大きな波が押し寄せている。ユーザビリティやアクセシビリティといった観点への注目度もあがっているが、全体としては技術の方向に大きく振れている時代に入っていると思う。なんとなく技術を知らぬ者、語るべからず….みたいな雰囲気。 しかし、上述のセッションを例に挙げるまでもなく、私たちにはネットの中で大きな共有経験がある。Microsoft ASPが出たとき、それで開発されたサイトが活況だったか。他の堅牢なバックシステムを備えたサイトが評判になったか。技術屋が喜ぶ機能項目をエンドユーザが心から歓迎したか。 私たちは、本という情報流通システムに感動はしない。書籍販売というコンテンツ系ビジネスモデルにも感動はしない。感動するのはその物語だ。あるいはその物語を流通システムに載せた出版・編集戦略に感動する。この出版社がこの形でこの時期に出すのか….と。 ネットがあって当たり前の時代に入りつつある今、システム的要件は必要条件になりつつある。なくてはならない、でもそれが主たる魅力ではない。店先で「本」をいかに傷つけないように運搬したかを誇る本屋がないように、並べてある本そのもの(ストーリー)とその並べ方(ストーリーテーリング)が、その本屋の評価に繋がるように、コンテンツの時代が少し先に待ち構えている気がしている。一方に傾いた振り子が、ある時間が経てば逆方向に動き出すように。システム連携の話が一段落したら、揺れ返しが襲ってくる。私たちはその準備ができているだろうか。 なにか物事がこんがらがり始めたら原点に戻れ、とはよく言われることだ。Webサイトって何だっけ、何が面白かったっけ、何がワクワクさせてくれたっけ、何にワクワクしたっけ、何が自分を”そこ”に向かわせているんだっけ。”とらや”のサイトのソースを眺めながら考えている。原点回帰。 同時にあるコマーシャルのコピーを思い出した。「Webがつまらない? 私はそうは思わない」。Macromedia社のMXシリーズのコピー。その通り、同感。もっとワクワクする時代がこの先に待っている、はずだ。 コンテンツクリエイタにとっての冬の時代、この季節の過ごし方が、どんな春になるかの分かれ道か。デザインをするために技術の勉強も必要だ。どんな絵の具か知らないと、本当に良い絵が描けないのと同じである。でも人を集めるのは技術ではなく人である。その牙を研ぐのを忘れまい。 …信蔵氏の術にはめられついでに、店舗を探した。いつか日のあるうちに近くを通ったら、立ち寄ってみよう(ネットでも買えますが)。静かな和室には程遠い我が家でも、憩えるかもしれない。美しい羊羹を見ていて頑張る勇気が湧いてきた。感謝。 とらや: http://www.toraya-group.co.jp/ Paul Orchanian氏: http://www.reflektions.com (戻るボタンにも細工されます、お気をつけて) 中村勇吾氏: http://surface.yugop.com/ 福井信蔵氏と中村勇吾氏の勤める会社:bA: http://www.b-architects.com/ (ネスケ7以外で見ることをお奨めします) 以上。/mitsui ps.先週は原稿落としてしまいました。くたくたでも書き綴ったんですが、寝ぼけて保存したら何処かに迷子になってしまいました。すいません。 pss.敬称の「氏」は姓に対するものなので、上の文書は変です。でもご容赦ください。

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    コラム No. 20

    煙草とデザイナ Webデザインの打合せをする。一通りの話を済ませた後、それぞれがしばし考え込んだ。依頼したデザイナは、視線を資料からそらすことなく、胸元を探り煙草を出す。そのまま火をつけ、煙の流れる方向も考えずに吐き出した。今ままで飲んでいた缶コーヒーをそのまま灰皿にして。 その時、私は三つのことを考え始める。1)このデザイナにどうしても頼みたい理由は何だっけ。2)他の候補者の当てはあるか。3)今からデザイナを変更することは現実的に可能だろうか。 私が目の前で煙草を吸われるのを嫌う理由は幾つかある。A)私は気管支が弱い。B)間接喫煙が他者の健康を害することは今や殆ど常識である。C)煙草は個人の嗜好という問題ではなく中毒症として捉えるべきである。D)配慮しないデザイナとは組みたくない。AからCはとりあえず置いておいて、Dだけ書こう。 Webデザイナ(含ディレクター、プロデューサ)の技量を考えてみて、何が根源的条件だろうか。グラフィック、即ち絵描きの能力か。HTMLコーディングの能力か。Webシステムに対する知識か。つきつめて考えて行くと、それらはWebデザイナ固有の技能ではない。絵描きの能力はアーティストにより多く要求されるかもしれない。HTMLはコーダーの領域だ。システム知識はエンジニアか。それぞれ本職とする者たちがいる。どの技能もWebデザイナに必要だが、何か1つと言われたなら? 「ネット上の未だ見ぬ者へ配慮する能力」、それが一番必要だと私は思っている。それが根っ子にあって、エンドユーザを迷わせないサイトがデザイン(設計)できると信じている。未だ見ぬ者を迷わせたくないから、迷わないサイトを作るよう努力できるのだ。「迷わせたくない」、それは「配慮」からにじみ出るものだと思う。迷っている者を見ると手を貸さずにはおられない。迷い易いサイトを見ると気持ち悪くてムズムズする。頼まれもしないのに、場が与えられれば、あれこれと手を尽くす。能力や技量というより性質(たち)と呼んだ方が良いかもしれない。 サイト訪問者を特定することはシステム的に準備していないとできないことだ。だからログという記憶を辿るとき、その訪問者の姿は想像するしかない。何を良しとし、何を嫌うか。その人物像とサイトの戦略的方向性を考えて、次に打つ手を考える。相手を想像する、それは大きな力だ。最近はサイト設計の初期に、訪問者の代表的プロフィールを詳細に決めろという指針もある。年齢、性別、職業、趣味、家庭環境、…。その自分で作り上げた架空の人物がそのサイトを訪れたとき何を感じるのかを、また想像する。そしてそれがマッチしているかを検証するのだ。 未だ見ぬ者への配慮と、目の前にいる者への配慮とは、全く異次元のモノかもしれない。が、2つは何かしら関係があり、互いに他方を予測する情報にはなり得ると思っている。この仮説を強引に広げれば、目の前の人間の健康に配慮しない者が、未だ見ぬ者へ気を配ることは稀だと言える。 配慮する心がない者と組む仕事は辛い。サイト開発は、どんな理論的な言葉を並べても開発者のパッションのようなものに引っ張られているのが現実だと思う。そのサイトを想う気持ち。それが根底だ。しかし、その方向性は各人で微妙に異なる。でもそのサイトを良くしたいと言う部分は共通だ。そこに配慮の力が必要になる。妥協でもおもねるのでもない。互いに配慮するのだ。 たとえば、ショッキングピンクをトップページの背景に持ってこれるのは、極めて特殊な場合だけだろう。業態か戦略か、よほどの事がない限り、銀行系等の硬い業種に提案はしない。それは、ショッキングピンクに対する一般的な反応を知っているから、提案候補から外れるのだ。嫌われるなら提案しない。無難な路線を狙うのではない、わざわざ非本質的な部分で衝突をすることはない。常識的配慮である。 喫煙者は、その煙に対する評判を知っているはずである。知っていなかったら、余程の不勉強だ。なのに吸う。人前で吸う。相手がどう思っているかを確認もしないで吸う。それができるということは、こちらが難色を示した案も強引に押してくる危険性があると判断する。性急な判断かもしれない。でも配慮に関しては、気がつく人はとことん気がつくが、無頓着な人は全く無頓着になりがちだ。で、チーム内に無頓着が居ては困る。ただでもリスキーな開発に更に身内に爆弾を抱えて突進していく気にはならない。 「どこでも喫煙者」を嫌う理由はもう一つ。基本的に喫煙は制限される方向にある。吸う人の自由ではなく、間接喫煙をさせられる人の自由を尊重する方向に世界中が動いている。吸って良い場所は減る方向にしかない。しかし、吸うのである。最近はさすがに減ったが、海外出張へ行くと、禁煙マークの真下でタムロシて煙を量産している日本人が多々見られた。それは、ルールを無視しても良いという素地を持っているという現われだ。英語が分からないとか言い訳を重ねてその場を逃れられるという目算が見える。そして「俺だから許してよ」みたいな甘えも感じる。一緒に修羅場をくぐっている最中にそんな甘えは聞きたくない。皆でサイトを作っているときに、本番用画像はここに置くと決めたとき、俺だけは面倒だから許してよと言われては困る。 そして、そのルール破りの姿の与える影響である。私は日本の若者の精神的混迷を生んでいるのは鉄道会社が一因だと思っている。毎朝若者は本来禁煙であるはずのホームで、ルールを守らない者と、本気でそれを禁じようとしない建前活動を目にする。世の中にはそうやって本音と建前で生きいて行けるんだと、子供たちは直感的に納得している。守るべきを守らないのは「恥」であるという日本精神論は毎朝崩されている、ボロボロに。その象徴が「どこでも喫煙者」だ。 今朝もオフィスまでの公園を歩き煙草の御仁が多々居た。CMは見ているのか、携帯灰皿はお持ちのようだ。しかし、幼稚園児が遊ぶ公園を煙を吐き出しながら突き進んで行ける。不思議だ。 吐き出す煙に咳き込みながら、作り手の理屈だけで作られたサイトを想う。最低限のユーザビリティとかのガイドラインには沿っているようだ。ほら携帯灰皿は持っているよ、といった言葉が聞こえる。作った側から見れば情報は見やすく並んでいるようだ。しかし、訪問者にとっては、情報検索の思考を妨げるように余計なページが事あるごとに現れる。後ろで咳き込んでいる原因が自分にあることを疑いもしない「どこでも喫煙者」のように、何故ここから情報を取れないんだと胸を張っている。 Ridual のサイトを立ち上げて、こんな偉そうなことは本当なら書けない。ログを見る限り多くの方が迷っている。分かり難いサイトなんだろう。昔は気がつくことを負荷(損)に思ってきたが、最近は気がつけることを喜んでいる。気がつかないで傍若無人でいるよりは、気がついて苦労してでも修正したい。これでも日々対応策を考えています。言うは易し、行なうは難し。 以上。/mitsui ps.Ridualチームに喫煙者は居ます、彼は吸いたくなると細心の配慮を尽くします。その配慮に感謝も尊敬も。

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    コラム No. 26

    モノ:CLIEというデバイスと情報の形 今期せずしてハマッているものがある。CLIE PEG-NX70V(以下単に「CLIE」)。パームは幾つかの機種を触ってきたのでパーム機としての新鮮さは解像度程度。ハマッているのは、「CLIE Mail」と「NetFront」。 Mailとは基本的に削除しない、というのが今までの方針だった。それが、このデバイスのおかげで軌道修正された。CLIEはメモリ制約のせいもあって、捨てざるを得ない、貯めておいてはいけないマシンである。情報ってなんだろうと考えさせられている。 少し操作方法を説明しよう。機種は、CFカードスロットが後ろに、多少邪魔なデザインでついている。私はP-inマスターを使っているが、その設定は通常通りプロバイダのアカウントとアクセスポイント情報を入れるだけ。CLIE Mailの設定は、複数のアカウントを設定できること、それから受信方法を指定できるところがポイント。受信設定には二つの項目がある;  1) 取得行数:   1-1) すべて   1-2) ヘッダ+本文行数指定(最初の「20」行指定)  2) 取得メール数   2-1) すべて   2-2) メール数指定(最近の「20」通取得) 「」内の数字は任意に指定でき、更に「フィルタを使用」することも可能。 上記の標準的な設定で三つのアカウントの mail をチェックする時間は約1分半。1つのアカウントだけだと早い時は30秒。それだけで後はオフラインで mail を読める。形状的には、CFカードを装着していると、上のほうに重心が移って多少アンバランス。しかし、電車の中でも殆ど片手で自由に操作できる。 この取得行数の設定が気に入っている。最初の20行でまともな情報伝達を出来ている mail は余りない。受信した mail が取得行数制限がかかっている場合、「次回接続時に残りを取得 ○.○k(○はファイルサイズ)」を選択することが出来る。結局二度手間で受信することも多いのだが、最初の20行で伝わらないものは捨ててしまうことも多い。 mail マガジンで最初に広告や解除の方法や定幅フォントでとか長々書いていあるモノは、そのままワンタップ(クリックと同義)で削除される。中身を見ることもない。mail ニュースで最初の20行までにニュースの目次にまで達しないものもある。再度受信するときもあるが、もういいやと捨てるときもある。HTML mailはHTMLコードがそのまま現れるので見る気にもならない。受け手に配慮せずに送りつけられたものは即座に捨てる。迷惑 mail も、うざったいという感覚は持つが、新聞折り込み広告の自分には無関係なモノを殆ど見ることもなく捨てる感覚で処理できる。捨て易いとは怒りになりにくい要素なのだろう。 CLIEは高解像度の液晶が売りでもあるので表示は非常に綺麗。しかし画面幅という物理的制限は越せない。受信した mail は、小さいフォントの設定で横約17文字、大きいフォント設定では約12文字。約というのは禁則処理をしてくれるので、句読点などは前の文字ごと次行に移されるから。決して見やすい訳ではない。35文字に設定している mail マガジンは、本来の1行分が「2行+1文字」に分断される。見るからにガクガクしたフォーマットで読むことになる。パソコンのメーラを想定して、インデント等が入っているとフォーマットは更に崩れる。情報の塊が何処から何処までなのか目測が効かない。見づらいなんてものではない。改めてこういったデザインの意味を思わされる。 そんな中で見やすいのは、特別なテーマにそったメーリングリスト。最初の行に自分が誰で誰に送っているのかが明記されている。その後、伝えたいことが簡潔に記述される。質問であるのか、意見であるのかも最初の17文字強を読むだけで雰囲気でほぼつかめる。引用部分も必要最低限にしてあるし、手紙文化から来ているフォーマットや挨拶文は混じらない。とっても分かり易い。パソコンではついつい流し読みしているものを、電車内でCLIEではじっくり読んだりする。改めて、言葉の持つ力を実感する。初めに言葉あり。 mail 内のURLはタップすれば、ブラウザである NetFront が立ち上がる。基本的に mail はオフラインで読むしかないので、NetFront が立ち上がった時点で接続するかを聞いてくる。このブラウザがまた曲者で、表示モードを3つ持っている。 標準表示モード、縮小表示モード、ジャストフィットモード。最初の2つは、作られた画面を出来る限りパソコンブラウザと同じように表示し、拡大縮小がかかっているもの。スクロールして全景をつかむ。最後のものは、HTMLにどう書いていようが、物理的な画面の中にスクロール無しで表示しようとするモード。もちろんこれが一番便利。その場合、ニュースサイト等で馬鹿でかいバナーがあったりすると、それと記事文面を横に並べて表示するのを諦めたりする。広告だけがあって、その広告が切れたところから記事が表示されたりするのだ。CMカット機能といってもよい。デザインされている画面が崩されることで、再度デザインされている。しかも、こと広告に関して言えば遥かに邪魔にならないように排除できる。 CLIE MailもNetFrontも、そこに広告を出している者にとって嬉しい機能ではない。しかもそれぞれのアプリはそういったものを排除することを目的にしている訳ではない。しかし結果としてCLIEユーザが欲していないものを排除する方向に働いている。そして、ベースマシンであるパソコンでの mail 受信のスタイルにも影響が出つつある。貯めていく情報から、捨てていく情報 へ。 もちろん、これらのアプリの前にパームの素晴らしさがある。10年以上前、NEC98シリーズの新版が出るたびに起動時間の短さを派手に宣伝していたのを憶えている。当時冷ややかに見ていたが、PDAのスイッチと同時に稼動状態になるという、限りなく起動時間ゼロに近い状態を目指していたのかと思い出す。正直言ってCLIEまで来るとマシンへの感覚自体が変わってくる。実は壮大な理想だったのだ。OSが重くなっている昨今の流れは、その理想への逆流か。 アプリはハマッているだけで、完成しているとは思っていない。受信した記事の中から特定の部分を他アプリに渡すのもできたり出来なかったりする。イベント情報はスケジューラに、技術情報はメモ帳に渡したい。添付で付いてきたファイルを別アプリで開きたい。Flash Playerが付いているのに、添付ファイルをそれに渡すことが出来ない。NetFrontもswf未対応である。それでも、何でもを持ち歩くのを諦めた時点で、このデバイスの価値がぐっと上がった。そもそもがメインマシンにはなれないデバイスなのだ。 通信という手段を容易に使えるようになって、このデバイスはサブメイン級だ。そして、かなり使える分、メモリの制限と電池の壁が立ちはだかっている。使用可能なアプリを常に使える状態にできない。ハード的なデザインも色々言いたい。私の使い方ではキーボードは不要。毎日使いもしないキーボード分の重量を運んでいるのは気分も悪い。しかし、不自由さは付きまとうものの、充分に使い倒したい可能性に満ちている。 新しいデバイスで、古い情報を見る。情報のあり方を考えさせられている。 以上。/mitsui ps.でも新機種出るたびに5万強というのには付いていけない。