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    コラム No. 19

    羊羹と物語ともらった勇気 2002年11月20日、Macromedia DevCon Japan 2002。福井信蔵氏が「新しいパラダイムの中でのデザイン」と題して、Webサイトのデザインについて語る。 遅れたため最前列に通されて、氏のプレゼンを大画面で堪能できた。何よりも印象に残ったのは、「とらや」サイト。「引き算のデザイン」という項目で話されたが、これまでの和風を印象つける装飾をできる限り排除し、ただ「美味しそう」なサイトを目指したと語る。目の前に広がる画面には、会社ロゴ以外に明朝体の文字すらない。シンプルに、そして本当に美味しそうな和菓子の美しい写真。 氏は説明する。「うまそうなサイト」を目指した。訪れた人が一度でもここの羊羹を食べたことがあったらそれを思い出すことを目指した、と。けれど、その説明を聞く前に私の口の中にはヨダレが溢れてきた。何しろ最前列である。約四畳半程の大きさの羊羹(YOKAN)が目の前に広がっている。食べるのが惜しいと思うほど美しい。私は単純だから、秋の日に暖かな日差しが障子越しに映え、その畳の上で抹茶を戴いている風景まで頭の中に広がる。お湯が沸くあの香りってどんなのだっけ。竹筒に水を落として「コーン」と響くやつ、名前なんだっけ。最近ゆっくりと小豆(あずき)を味わってないなぁ。想いが広がる。信蔵氏が畳み掛ける、「打合せのときに和菓子を出してくれるんですが、それが涙が出るほどうまい」。唾を飲み込んでしまう。何故”とらや”がこのDevConに出展してないんだ、と腹まで立ってきた:-) 私みたいなのばかりがサイト訪問者なら楽かもしれないと思うほど、私は氏の術中に落ちている。そのサイトはトップこそFlashを使っているが、基本的には非常にシンプルなHTML。丹念に撮影された写真を、丹念にjpeg化して、丹念に配置しているだけ。それだけの「作り」が、私のような訪問者の頭に色々と語りかける。画面をクリックするたびに広がる和菓子の世界で、私は更に色んな物語を夢想する。 Webサイトを物語に例える話を昨夏に聞いた。Flash forward 2002、Paul Orchanian氏の「Storytelling with Flash」。ユーザを惹きつけるギミックを分かりやすく説明しつつ、子供が本読みをねだるのは良い物語には何度でも触れたいと思わせる力があるからだと語っていた。子供は同じ本を何度も何度もおねだりする。物語を暗記するほど知っていても、尚読んでくれるように頼んでくる。それは子供に限ったことではない。良い物語に触れた大人も再びその物語に触れたくなるものなんだ、と。サイト開発者やコンテンツ制作者への何とも力強いエールである。良い物語を雄弁に語りなさい、そうすればリピーターは現れます、そう言ってくれている。(MdN 2002.10月号p134参考) 余談だが、このセッションで、Paul氏は自分をインスパイアーした何人かのアーティストの名を挙げた。無論、「ユーゴ ナカムラ」の名も出る。その瞬間、何ともいえない感覚に囚われる。中村勇吾氏、Flash Forward 2001でスタンディングオベーションで迎えられた Flash 使い。私は、氏と接したのは数回のセッションだけだし、別に民族意識が強い訳ではないが、なんだか嬉しい。サクセスストーリーという認識ではなく、自分なりの想いを精一杯語り続けていること自体と、それに感化されている人たちの質と量が嬉しい。これも物語か。 物語と対比されるものに”技術”があるかもしれない。今Webの世界には、.netやWebサービスといった大きな波が押し寄せている。ユーザビリティやアクセシビリティといった観点への注目度もあがっているが、全体としては技術の方向に大きく振れている時代に入っていると思う。なんとなく技術を知らぬ者、語るべからず….みたいな雰囲気。 しかし、上述のセッションを例に挙げるまでもなく、私たちにはネットの中で大きな共有経験がある。Microsoft ASPが出たとき、それで開発されたサイトが活況だったか。他の堅牢なバックシステムを備えたサイトが評判になったか。技術屋が喜ぶ機能項目をエンドユーザが心から歓迎したか。 私たちは、本という情報流通システムに感動はしない。書籍販売というコンテンツ系ビジネスモデルにも感動はしない。感動するのはその物語だ。あるいはその物語を流通システムに載せた出版・編集戦略に感動する。この出版社がこの形でこの時期に出すのか….と。 ネットがあって当たり前の時代に入りつつある今、システム的要件は必要条件になりつつある。なくてはならない、でもそれが主たる魅力ではない。店先で「本」をいかに傷つけないように運搬したかを誇る本屋がないように、並べてある本そのもの(ストーリー)とその並べ方(ストーリーテーリング)が、その本屋の評価に繋がるように、コンテンツの時代が少し先に待ち構えている気がしている。一方に傾いた振り子が、ある時間が経てば逆方向に動き出すように。システム連携の話が一段落したら、揺れ返しが襲ってくる。私たちはその準備ができているだろうか。 なにか物事がこんがらがり始めたら原点に戻れ、とはよく言われることだ。Webサイトって何だっけ、何が面白かったっけ、何がワクワクさせてくれたっけ、何にワクワクしたっけ、何が自分を”そこ”に向かわせているんだっけ。”とらや”のサイトのソースを眺めながら考えている。原点回帰。 同時にあるコマーシャルのコピーを思い出した。「Webがつまらない? 私はそうは思わない」。Macromedia社のMXシリーズのコピー。その通り、同感。もっとワクワクする時代がこの先に待っている、はずだ。 コンテンツクリエイタにとっての冬の時代、この季節の過ごし方が、どんな春になるかの分かれ道か。デザインをするために技術の勉強も必要だ。どんな絵の具か知らないと、本当に良い絵が描けないのと同じである。でも人を集めるのは技術ではなく人である。その牙を研ぐのを忘れまい。 …信蔵氏の術にはめられついでに、店舗を探した。いつか日のあるうちに近くを通ったら、立ち寄ってみよう(ネットでも買えますが)。静かな和室には程遠い我が家でも、憩えるかもしれない。美しい羊羹を見ていて頑張る勇気が湧いてきた。感謝。 とらや: http://www.toraya-group.co.jp/ Paul Orchanian氏: http://www.reflektions.com (戻るボタンにも細工されます、お気をつけて) 中村勇吾氏: http://surface.yugop.com/ 福井信蔵氏と中村勇吾氏の勤める会社:bA: http://www.b-architects.com/ (ネスケ7以外で見ることをお奨めします) 以上。/mitsui ps.先週は原稿落としてしまいました。くたくたでも書き綴ったんですが、寝ぼけて保存したら何処かに迷子になってしまいました。すいません。 pss.敬称の「氏」は姓に対するものなので、上の文書は変です。でもご容赦ください。

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    コラム No. 20

    煙草とデザイナ Webデザインの打合せをする。一通りの話を済ませた後、それぞれがしばし考え込んだ。依頼したデザイナは、視線を資料からそらすことなく、胸元を探り煙草を出す。そのまま火をつけ、煙の流れる方向も考えずに吐き出した。今ままで飲んでいた缶コーヒーをそのまま灰皿にして。 その時、私は三つのことを考え始める。1)このデザイナにどうしても頼みたい理由は何だっけ。2)他の候補者の当てはあるか。3)今からデザイナを変更することは現実的に可能だろうか。 私が目の前で煙草を吸われるのを嫌う理由は幾つかある。A)私は気管支が弱い。B)間接喫煙が他者の健康を害することは今や殆ど常識である。C)煙草は個人の嗜好という問題ではなく中毒症として捉えるべきである。D)配慮しないデザイナとは組みたくない。AからCはとりあえず置いておいて、Dだけ書こう。 Webデザイナ(含ディレクター、プロデューサ)の技量を考えてみて、何が根源的条件だろうか。グラフィック、即ち絵描きの能力か。HTMLコーディングの能力か。Webシステムに対する知識か。つきつめて考えて行くと、それらはWebデザイナ固有の技能ではない。絵描きの能力はアーティストにより多く要求されるかもしれない。HTMLはコーダーの領域だ。システム知識はエンジニアか。それぞれ本職とする者たちがいる。どの技能もWebデザイナに必要だが、何か1つと言われたなら? 「ネット上の未だ見ぬ者へ配慮する能力」、それが一番必要だと私は思っている。それが根っ子にあって、エンドユーザを迷わせないサイトがデザイン(設計)できると信じている。未だ見ぬ者を迷わせたくないから、迷わないサイトを作るよう努力できるのだ。「迷わせたくない」、それは「配慮」からにじみ出るものだと思う。迷っている者を見ると手を貸さずにはおられない。迷い易いサイトを見ると気持ち悪くてムズムズする。頼まれもしないのに、場が与えられれば、あれこれと手を尽くす。能力や技量というより性質(たち)と呼んだ方が良いかもしれない。 サイト訪問者を特定することはシステム的に準備していないとできないことだ。だからログという記憶を辿るとき、その訪問者の姿は想像するしかない。何を良しとし、何を嫌うか。その人物像とサイトの戦略的方向性を考えて、次に打つ手を考える。相手を想像する、それは大きな力だ。最近はサイト設計の初期に、訪問者の代表的プロフィールを詳細に決めろという指針もある。年齢、性別、職業、趣味、家庭環境、…。その自分で作り上げた架空の人物がそのサイトを訪れたとき何を感じるのかを、また想像する。そしてそれがマッチしているかを検証するのだ。 未だ見ぬ者への配慮と、目の前にいる者への配慮とは、全く異次元のモノかもしれない。が、2つは何かしら関係があり、互いに他方を予測する情報にはなり得ると思っている。この仮説を強引に広げれば、目の前の人間の健康に配慮しない者が、未だ見ぬ者へ気を配ることは稀だと言える。 配慮する心がない者と組む仕事は辛い。サイト開発は、どんな理論的な言葉を並べても開発者のパッションのようなものに引っ張られているのが現実だと思う。そのサイトを想う気持ち。それが根底だ。しかし、その方向性は各人で微妙に異なる。でもそのサイトを良くしたいと言う部分は共通だ。そこに配慮の力が必要になる。妥協でもおもねるのでもない。互いに配慮するのだ。 たとえば、ショッキングピンクをトップページの背景に持ってこれるのは、極めて特殊な場合だけだろう。業態か戦略か、よほどの事がない限り、銀行系等の硬い業種に提案はしない。それは、ショッキングピンクに対する一般的な反応を知っているから、提案候補から外れるのだ。嫌われるなら提案しない。無難な路線を狙うのではない、わざわざ非本質的な部分で衝突をすることはない。常識的配慮である。 喫煙者は、その煙に対する評判を知っているはずである。知っていなかったら、余程の不勉強だ。なのに吸う。人前で吸う。相手がどう思っているかを確認もしないで吸う。それができるということは、こちらが難色を示した案も強引に押してくる危険性があると判断する。性急な判断かもしれない。でも配慮に関しては、気がつく人はとことん気がつくが、無頓着な人は全く無頓着になりがちだ。で、チーム内に無頓着が居ては困る。ただでもリスキーな開発に更に身内に爆弾を抱えて突進していく気にはならない。 「どこでも喫煙者」を嫌う理由はもう一つ。基本的に喫煙は制限される方向にある。吸う人の自由ではなく、間接喫煙をさせられる人の自由を尊重する方向に世界中が動いている。吸って良い場所は減る方向にしかない。しかし、吸うのである。最近はさすがに減ったが、海外出張へ行くと、禁煙マークの真下でタムロシて煙を量産している日本人が多々見られた。それは、ルールを無視しても良いという素地を持っているという現われだ。英語が分からないとか言い訳を重ねてその場を逃れられるという目算が見える。そして「俺だから許してよ」みたいな甘えも感じる。一緒に修羅場をくぐっている最中にそんな甘えは聞きたくない。皆でサイトを作っているときに、本番用画像はここに置くと決めたとき、俺だけは面倒だから許してよと言われては困る。 そして、そのルール破りの姿の与える影響である。私は日本の若者の精神的混迷を生んでいるのは鉄道会社が一因だと思っている。毎朝若者は本来禁煙であるはずのホームで、ルールを守らない者と、本気でそれを禁じようとしない建前活動を目にする。世の中にはそうやって本音と建前で生きいて行けるんだと、子供たちは直感的に納得している。守るべきを守らないのは「恥」であるという日本精神論は毎朝崩されている、ボロボロに。その象徴が「どこでも喫煙者」だ。 今朝もオフィスまでの公園を歩き煙草の御仁が多々居た。CMは見ているのか、携帯灰皿はお持ちのようだ。しかし、幼稚園児が遊ぶ公園を煙を吐き出しながら突き進んで行ける。不思議だ。 吐き出す煙に咳き込みながら、作り手の理屈だけで作られたサイトを想う。最低限のユーザビリティとかのガイドラインには沿っているようだ。ほら携帯灰皿は持っているよ、といった言葉が聞こえる。作った側から見れば情報は見やすく並んでいるようだ。しかし、訪問者にとっては、情報検索の思考を妨げるように余計なページが事あるごとに現れる。後ろで咳き込んでいる原因が自分にあることを疑いもしない「どこでも喫煙者」のように、何故ここから情報を取れないんだと胸を張っている。 Ridual のサイトを立ち上げて、こんな偉そうなことは本当なら書けない。ログを見る限り多くの方が迷っている。分かり難いサイトなんだろう。昔は気がつくことを負荷(損)に思ってきたが、最近は気がつけることを喜んでいる。気がつかないで傍若無人でいるよりは、気がついて苦労してでも修正したい。これでも日々対応策を考えています。言うは易し、行なうは難し。 以上。/mitsui ps.Ridualチームに喫煙者は居ます、彼は吸いたくなると細心の配慮を尽くします。その配慮に感謝も尊敬も。

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    コラム No. 26

    モノ:CLIEというデバイスと情報の形 今期せずしてハマッているものがある。CLIE PEG-NX70V(以下単に「CLIE」)。パームは幾つかの機種を触ってきたのでパーム機としての新鮮さは解像度程度。ハマッているのは、「CLIE Mail」と「NetFront」。 Mailとは基本的に削除しない、というのが今までの方針だった。それが、このデバイスのおかげで軌道修正された。CLIEはメモリ制約のせいもあって、捨てざるを得ない、貯めておいてはいけないマシンである。情報ってなんだろうと考えさせられている。 少し操作方法を説明しよう。機種は、CFカードスロットが後ろに、多少邪魔なデザインでついている。私はP-inマスターを使っているが、その設定は通常通りプロバイダのアカウントとアクセスポイント情報を入れるだけ。CLIE Mailの設定は、複数のアカウントを設定できること、それから受信方法を指定できるところがポイント。受信設定には二つの項目がある;  1) 取得行数:   1-1) すべて   1-2) ヘッダ+本文行数指定(最初の「20」行指定)  2) 取得メール数   2-1) すべて   2-2) メール数指定(最近の「20」通取得) 「」内の数字は任意に指定でき、更に「フィルタを使用」することも可能。 上記の標準的な設定で三つのアカウントの mail をチェックする時間は約1分半。1つのアカウントだけだと早い時は30秒。それだけで後はオフラインで mail を読める。形状的には、CFカードを装着していると、上のほうに重心が移って多少アンバランス。しかし、電車の中でも殆ど片手で自由に操作できる。 この取得行数の設定が気に入っている。最初の20行でまともな情報伝達を出来ている mail は余りない。受信した mail が取得行数制限がかかっている場合、「次回接続時に残りを取得 ○.○k(○はファイルサイズ)」を選択することが出来る。結局二度手間で受信することも多いのだが、最初の20行で伝わらないものは捨ててしまうことも多い。 mail マガジンで最初に広告や解除の方法や定幅フォントでとか長々書いていあるモノは、そのままワンタップ(クリックと同義)で削除される。中身を見ることもない。mail ニュースで最初の20行までにニュースの目次にまで達しないものもある。再度受信するときもあるが、もういいやと捨てるときもある。HTML mailはHTMLコードがそのまま現れるので見る気にもならない。受け手に配慮せずに送りつけられたものは即座に捨てる。迷惑 mail も、うざったいという感覚は持つが、新聞折り込み広告の自分には無関係なモノを殆ど見ることもなく捨てる感覚で処理できる。捨て易いとは怒りになりにくい要素なのだろう。 CLIEは高解像度の液晶が売りでもあるので表示は非常に綺麗。しかし画面幅という物理的制限は越せない。受信した mail は、小さいフォントの設定で横約17文字、大きいフォント設定では約12文字。約というのは禁則処理をしてくれるので、句読点などは前の文字ごと次行に移されるから。決して見やすい訳ではない。35文字に設定している mail マガジンは、本来の1行分が「2行+1文字」に分断される。見るからにガクガクしたフォーマットで読むことになる。パソコンのメーラを想定して、インデント等が入っているとフォーマットは更に崩れる。情報の塊が何処から何処までなのか目測が効かない。見づらいなんてものではない。改めてこういったデザインの意味を思わされる。 そんな中で見やすいのは、特別なテーマにそったメーリングリスト。最初の行に自分が誰で誰に送っているのかが明記されている。その後、伝えたいことが簡潔に記述される。質問であるのか、意見であるのかも最初の17文字強を読むだけで雰囲気でほぼつかめる。引用部分も必要最低限にしてあるし、手紙文化から来ているフォーマットや挨拶文は混じらない。とっても分かり易い。パソコンではついつい流し読みしているものを、電車内でCLIEではじっくり読んだりする。改めて、言葉の持つ力を実感する。初めに言葉あり。 mail 内のURLはタップすれば、ブラウザである NetFront が立ち上がる。基本的に mail はオフラインで読むしかないので、NetFront が立ち上がった時点で接続するかを聞いてくる。このブラウザがまた曲者で、表示モードを3つ持っている。 標準表示モード、縮小表示モード、ジャストフィットモード。最初の2つは、作られた画面を出来る限りパソコンブラウザと同じように表示し、拡大縮小がかかっているもの。スクロールして全景をつかむ。最後のものは、HTMLにどう書いていようが、物理的な画面の中にスクロール無しで表示しようとするモード。もちろんこれが一番便利。その場合、ニュースサイト等で馬鹿でかいバナーがあったりすると、それと記事文面を横に並べて表示するのを諦めたりする。広告だけがあって、その広告が切れたところから記事が表示されたりするのだ。CMカット機能といってもよい。デザインされている画面が崩されることで、再度デザインされている。しかも、こと広告に関して言えば遥かに邪魔にならないように排除できる。 CLIE MailもNetFrontも、そこに広告を出している者にとって嬉しい機能ではない。しかもそれぞれのアプリはそういったものを排除することを目的にしている訳ではない。しかし結果としてCLIEユーザが欲していないものを排除する方向に働いている。そして、ベースマシンであるパソコンでの mail 受信のスタイルにも影響が出つつある。貯めていく情報から、捨てていく情報 へ。 もちろん、これらのアプリの前にパームの素晴らしさがある。10年以上前、NEC98シリーズの新版が出るたびに起動時間の短さを派手に宣伝していたのを憶えている。当時冷ややかに見ていたが、PDAのスイッチと同時に稼動状態になるという、限りなく起動時間ゼロに近い状態を目指していたのかと思い出す。正直言ってCLIEまで来るとマシンへの感覚自体が変わってくる。実は壮大な理想だったのだ。OSが重くなっている昨今の流れは、その理想への逆流か。 アプリはハマッているだけで、完成しているとは思っていない。受信した記事の中から特定の部分を他アプリに渡すのもできたり出来なかったりする。イベント情報はスケジューラに、技術情報はメモ帳に渡したい。添付で付いてきたファイルを別アプリで開きたい。Flash Playerが付いているのに、添付ファイルをそれに渡すことが出来ない。NetFrontもswf未対応である。それでも、何でもを持ち歩くのを諦めた時点で、このデバイスの価値がぐっと上がった。そもそもがメインマシンにはなれないデバイスなのだ。 通信という手段を容易に使えるようになって、このデバイスはサブメイン級だ。そして、かなり使える分、メモリの制限と電池の壁が立ちはだかっている。使用可能なアプリを常に使える状態にできない。ハード的なデザインも色々言いたい。私の使い方ではキーボードは不要。毎日使いもしないキーボード分の重量を運んでいるのは気分も悪い。しかし、不自由さは付きまとうものの、充分に使い倒したい可能性に満ちている。 新しいデバイスで、古い情報を見る。情報のあり方を考えさせられている。 以上。/mitsui ps.でも新機種出るたびに5万強というのには付いていけない。

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