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    ต้องการเล่นเกมบาคาร่าในเว็บไซต์คาสิโนที่น่าเชื่อถือ

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    ทั้งหมดที่เกี่ยวข้องกับการชำระเงินสล็อตออนไลน์

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    コラム No. 21

    情報の蓄積 Webサイトの開発をサポートするツールを開発しようとしている。自分たちの作業で手一杯というのが本音だが、さすがにリリースされたときには時代遅れでした、というのは悲しい。だから業界動向は努めて見るようにしている。 メールマガジン、Webサイト、各種メディア。自分のアンテナに触れるものなら何でも覗き込む。で、問題はその蓄積方法である。自分ひとりでも、忘却との戦いは厳しいものだし、それが複数の人間のアンテナに触れるものを共有しようとした場合、かなり面倒だ。 自分の頭のメモリが少ないので、目で見える形に並べて蓄積していく方法が良い。しかし、できる限りその手間を省きたい。もちろんデータベースを前提にするが、簡易にアクセスできるようにHTML版も欲しい。で、公開している「Web news」の形( http://www.ridual.jp )に落ち着いた。 情報は、鮮度が命ではあるけれど、分類作業も命である。鮮度の高い順に情報に接したいという想いと同時に、あるテーマについて考える場合にまとまって情報が得られる状態を望む想いがもう一方にある。時間順に並べられた情報では、浮かんだアイデアが掻き消される。 Web newsは、上に最新(私たちの登録から1日以内)情報。その下に15種類の項目に分類して置いている。INDEX代わりにページ内リンクを張り、それなりに情報に辿りつきやすくしている。またニュース系の情報は90日以内のみ掲載する。 この仕組みはFileMakerで作っている。社内では複数の人間が、自分のアンテナに触れた情報をブラウザ越しに登録していく。登録項目は、基本的に日付、情報のタイトル、そのURL、その分類の4項目。余裕があればコメントなども入力できるが必須にはしていない。各自がメールやサイトを見るたびに、これはと思う情報から3項目だけコピーペーストし、分類だけ考えて入力していく。社内ではFileMaker経由で検索もできるが、公開しているフォーマットのHTMLに書き出して使う。FTPも情報登録した者が、適当な時期を見て毎度本物を上書きする。Macだとスクリプトでもう少し自動化できそうだが、Winで運用しているので、HTMLに書き出して「ソースを見る」をクリック、それを保存するという手作業が入る。しかし、この場で見た目の確認を行うので、馬鹿馬鹿しい作業とは思っていない。 情報登録者の負担は大きいとはいえない。どうせ毎日最新情報は気にかかる。そして複数の人間がいつでも良いから書き溜めるので、それなりに幅のある情報蓄積になっている。あの情報なんだっけとか確認作業にちょっとした重宝している。 Ridualのように他の製品と連携しようとすると、それらのアップデートの情報が結構大切になってくる。今の最新版が何であるのかとか、どこかで組まれたTips特集記事等はまとまってないと困る。そして恐らく何人もの人がそうした作業をしていると思っている。だから公開した。何人もが同じ作業をしていて、それを簡易化できるなら、そこにニーズがあり、マーケットがある。 ログを見る限り、まだそれほど見られていないページだが、面白い傾向も見えている。既存製品の名前がそのままページに記されているので、検索エンジンが引っ掛けてくれている。主な検索エンジンからのアクセスがそこそこある。思いもよらず、Ridualサイトに招き入れられるお客さんもいるということだ。 このページは情報の二次利用に過ぎない。しかし、作ってみて情報を売り物にするサイトの難しさを感じる。 ネットに入ってくるのは、基本的には何らかの情報を得るためである。その延長線にある、ある特定の情報にアクセスするために、更に料金を要求するのである。どう考えても難しい。高速道路に入るのにお金を払い、ある箇所のある角度から見える風景に課金するようなものだ。自然が丸くした石がころがっている川原で、少しばかりより丸い石を売ろうとするようなものだ。その場所に立ち止まってでも見たい、欲しいと思わせる「何か」がない限り、財布の紐を緩めないのが道理だ。 各種既存メディアのサイトを参考にする。どこも苦労しているのが良く分かる。でも、何かが足りないのも見て取れる。お金を払ってこのサイトを訪れるか、と自問するだけでいい。 実生活でも、同じモノを入手するときに、値段だけでなくサービス全体を比較項目に入れている場合は多い。入手できれば良いわけではい、気持ちよく入手できることが重要な場合もある。で、ネット上での情報入手は気分の良い「体験」となっているか。う~ん、まだまだだろう。 検索できる。過去にまでキー操作だけで遡れる。紙面という大きさの制限がない。様々なディジタルの利点を本当に活かしているだろうか。便利なはずだと思いながら、迷子にさせられると余計に気分が悪くなる。 学生時代、果物や缶詰の売り子をしたことがある。品物を並べるだけでは駄目だということを痛感した。配置を考え、値札に工夫して。それだけで売り上げが伸びる訳ではなかった。その家の娘が、普段はスーツ姿で決めているキャリアウーマンなのに、店を手伝う時は汚いジーパンで汗を拭いながら呼び込みを始めた。必死で前を行く見知らぬお客さんに笑顔で売り込む。圧倒された。場の雰囲気が変わる。買う気でなかったであろうお客さんまでが足を止める。笑顔で商品を勧める。「お前の笑顔に騙されたと思って」財布を取り出してくれる。それを横目で見ながら、とてもできないと思った。でもやってみた。私の笑顔に価値はなかったろうが、一生懸命なのは伝わった。売れた。そして嬉しかった。そして店を閉めるときの達成感や疲労感が違うのを感じた。 ネットで情報を商品にすることを考えながら、新聞や雑誌を繰る。改めて隅々まで作り込まれているのを実感する。限られた紙面の中にどれくらい情報を盛り込めるか本気で考えている。折込広告をパラパラと眺めながら、迷惑メールや広告メールとの違いを考える。メールだと腹が立つのに、とても買えない億単位の家の広告も、折込だと穏やかに見れる。この差は何だろう。 情報にあふれている、と言いつつも、まだまだやることは、やれることは山ほどあるのだろう。汗を流して売る、この商売の根本が鍵かもしれない。別に根性論をしたい訳じゃない。このサイトは本気だぞ、と思わせる「何か」。広告収入がメインとなっている情報サイト。「情報」はまだ「商品」にも「サービス」にもなっていないのかもしれない。 以上。/mitsui

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    コラム No. 22

    キャリアパス 優れたエンジニアは、優れたマネージャになれるのか。 会社と言う組織に属すると、会社の新陳代謝や成長という意味でも人間の流出が必要になってくる。業績悪化を原因に一時的にでも新卒採用を停止した場合、組織の構成のバランスが狂い、それを再びバランスの取れた状態にするのには業績を戻す以上の時間がかかるとも言われる。 新人が入ってくるということは、既に居た人はポジション的には上に押し上げられることが自然な流れである、実力が伴えば。そこで、この問題が出てくる。優れたプログラムを書くエンジニアは多々居る。それが年功序列的にプロジェクトのマネージメントを任せて行って良いのだろうか。 結論から書くと、無理がある。私が体験的に知っている方法は、2つのキャリアパスを用意することだ。マネージャに進むパスと、シニアエンジニアに向かうパス。どちらに進むかは本人の自己判断。マネージャを決意した者は、プログラムだけでなく人のマネージメントを学習する。シニアエンジニアへ進んだ者は、より高度なプログラミングスキルを要求され、チーム内外の相談役も暗黙のうちに引き受ける。 何故、このようなパスが用意されたか。それは問題があったからだ。優れたエンジニアが優れたマネージャになれない現実があった。プログラミングは協調能力は必要だが基本的に個人技で端末に向かって職人のようにコツコツゴリゴリとコードを書く。物言わぬデータ構造やロジックの良し悪しを吟味する。それがある日突然、人を相手にし、人を評価することになる。エディタとデバッガが友達だったのが、Officeツールで更に上のマネージャに報告書を書く時間が増えていく。全くの別世界だ。 かと言ってシニアエンジニアへの道も平坦ではない。昨年の自分よりもスキルが上がり、会社に貢献していることを、どう数値化するのか。綺麗なロジックが書けても、それが能力評価には中々結びつかない。会社も年俸制にして目標設定と達成度を測ろうとしたり、試行錯誤を繰り返す。多分今も。 では、デザイナである。絵が描きたい、ファンタスティックなサイトを創りたい、で、この業界に入った人の先はどうなるのだろう。いや別の理由で入ってきた人でも良い。この道はどこにつながっているのか。 最近教育関係の方と会っている。話題は、デザイナ創出ではなく、ディレクタ創出だ。相手が私達だからその話題になる可能性はあるが、学校としては、サイト構築プロジェクトのディレクションをできる人材を如何に世に出していくかが大きな課題のようだ。絵が描けるだけではない、プログラムが書けるだけではない、全体を見渡して進めていく能力。能力の上下ではない。別の能力。 エンジニアの将来像と同じような未来図が頭に浮かぶ。一生デザイナで生きていく者と、ディレクション側に移っていく者。これまたエンジニアの場合と同じで、どちらも平坦な道ではない。プログラムは通常ソースは開示しないので、書き手の能力がそのままアラワになることは少ない。設計の要素がクッションになる。しかし、絵は違う、大雑把に言ってしまうと、時代に受けるか受けないかの判定が結構容易についてしまうのではないだろうか。1ピクセルの勝負が何処までいつまで続けられるか。また、ディレクタも大変である。自分と同じような一癖も二癖もあるデザイナと、それと水と油に喩えられるエンジニアと、クライアントと、気まぐれなエンドユーザを相手にする。スゴロクの「あがり」という訳には人生いかない。 家庭や子供といった要素から、経済的に若い時のままでは立ち行かなくなる。何らかのベースアップをしていかなくては困る。困るのは贅沢するためや偉ぶるためではない。デザイナは豊かに暮らすべきなんだと思っている。デザイナはその作品を見た者に何かしらのある種の「感動」を与え続けることに使命がある。だとしたら、その感動は、ストイックな中から生まれ続けるのだろうか。たぶん、無理がある。だから自分が豊かを目指さなくてはいけない。但し、豊かさの定義が個々人で異なる。短絡的にサラリーアップではないのだろう。 豊かになるために、多少の苦労もする。なんだか矛盾めいた話だが、それも必要ではないかと思えてきた。同じ平坦でない道であるならば、どちらが好きになれるかを少しは備えて見ておいた方が良い。大きなお世話だ。高校生のとき将来を考えろと怒鳴っていた先生を煙たく思っていた自分を思い出す。でも、子供も大きくなりかけてきた私の年代ではそうも言っていられない。今から5年後自分は何処で何をしているだろうか。Webから振り落とされずに、自分の縄張りをまだ持ち得ているか。そこで豊かになっているか。そのための準備は? コンテンツがBB時代を迎える。それが見えていたから、敢えて基本となるサイトの構造をきちんとしておかなくては困るぞ、と先読みした。どうすれば論理的にサイト構築ができるのか。ツールで解決できるのではないか。それがRidualの発端だった。業界の先を考えるのは苦しくもあるが楽しいので悶々とでも考える。でも自分の将来像は考えにくい。でも、考えなきゃいけない。 自分以外にも考えて欲しい。Ridualにはそんな想いも詰まっている。21世紀に入ってしまったけれど、まだまだ20世紀型開発手法に囚われている。そんなのを通り越して、新しい領域に行きたい。だから今あるものを体験できるように形にした。デザイナの方にも使って欲しい、こんな苦労があるよね、でもこんな解決方法もあるよね。でも、まだまだもっと良い方法があるよね。そんな風に先を見てみたい。 こんなスタンスが、Ridualの製品化のネックにもなっている。これは単なるツールじゃない。考え方を含んでいる。人によっては、とんでもないお節介ツールに見えるだろう。そんな思想めいたものにニーズがあるのか、売れるのか。商品になるのか。今までかかって築いてきた開発手法を再度考え直してまで導入してもらえるのか。マーケット的には不安だらけだ。商品化したら、その後の開発の継続はどうなるのか、一発屋で終わらないだろうな、興味を持ってくれている方も不安だろう。デッドロック状態。 最近ダウンロードの頻度が増えてきている。迷惑かと遠慮して、mailコンタクトも取っていないが、平日は1~2時間毎には気になってチェックしている。殆どが本物のアドレスを記してくれている。その会社のHPにも訪ねていく。気になる組織からのアクセスだと感動する。色々とどう使われるのかを考える。打って出れるだけの市場性はあるのかも考える。 開発者のキャリアパスだけでなく、Ridualも一歩進んでは分岐路にぶち当たる繰り返しだ。でも、そろそろ次のパスを選ばなくてはいけなくなってきている。 以上。/mitsui

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    コラム No. 23

    悪夢 夢を見た。この年齢になっても、冷汗をかいて、飛び起きるようなのを。 夢の中でサイトのリニューアルを検討していた。エンジニア代表と基盤系代表とデザイナ代表の私のチーム。我々だけが当初から呼ばれた訳ではないチーム。 要件定義をして、システム設計をして、さぁ作り出そうといった時に、何かお化粧がいるよね、となって呼ばれた。話を聞くと、エクセルで書いたポンチ絵を綺麗な gif にしてくれれば良い、とのこと。しかし、そのサイトがどのように使われるのかの検討がなされていない。ただ漫然と検索し易いような機能がチョコチョコと付け足されただけでリニューアルだと言われた。ここに設計されているシステムにお化粧直しをして、素晴らしいモノにしてくれと。自分達が馬鹿にされているようにも感じたけれど、Webを何だと思っているんだと引っかった。 実際にその運用に当たる者へのヒアリングも、その負荷計算もされていない。明らかに実際には回らないシステムの設計図のようなものが分厚い冊子の中に記されていた。思いつくままに、どう使われるのかを質問する。その度に、「それはここに書いてあったでしょう、どこだっけ」と担当者はその冊子を繰る。即答されることはなかった。俺たちはエンジニア様なのだと顔に書いてある。俺たちが設計した通りに、ユーザが使いなさいとも書いてあった。 なんだか胸が締め付けられる感覚に襲われる。このままでは、この子(サイト)が殺される。夢の中の自分の心に誰かが叫ぶ。助けてくれ。お願いだ、ディスクのゴミにはしないでくれ。そうはさせない、とつぶやく。 どう質問しても、複数いる担当者から、そのサイトが自分のサイトだというニュアンスが伝わってこない。自分の担当した仕事を可能な限り最小にすることだけを目標に進んでいる。私は仕事をしています、と何処かにレポートできるだけの仕事。そして運用の場面での責任を可能な限り、誰かにフってしまおうとするミエミエの態度。どこかで使ったテクニックを、何も考えずにそのままこのプロジェクトに当てはめている。どこかの手引書に書かれてあるシステム構築上の注意点のような垢まみれの言葉が宙に浮く。どこにもこの子の親がいない。 イラツキながらカレンダーを探していた。今はいったいイツなんだろうか。本当に21世紀なのか。5年以上も前の打合せでも、もう少しましだった。巷で言われている、ユーザ体験とかユーザビリティとか、そんな言葉の存在さえも知らないように見えた。自分の「使命」が分かっていない。データベースを作ることが使命なのではない。安定なシステムを選定セッティングすることが使命ではない。使われるサイトを創ることが使命なんだよ。 怒りが爆発しそうになり、それまでオフィスに見えていた会議室が、突然和室に変わり、無機質な机がチャブ台に変わり、それをひっくり返してしまったところで夢から覚めた。息が荒くなり、馬鹿野郎と危うく本当に声に出してしまうところだった。「まだ、こんなことがあるのか」。そんな夢を見た自分にも腹が立っていた。 夢から覚めて、出張に行った。領収書が欲しくて、切符を買うのに窓口に並んだ。行き先を告げる。 「すぐ乗られますか?」 「はい」 「では、この指定券で…」 「…できれば自由席で行きたいんですが…」 「え? 自由席ですか…。じゃ、この切符で」 「電車はすぐ来ますか?」 「お調べしないと分かりませんね、調べましょうか?」 窓口のフロアには自動販売機がある。それを使えば会話無しに切符は買える。領収書だって指示すればもらえることに後で気がついた。この男は自分が発券機の前に座り客に切符を売るという仕事が分かっていない。自動発券機に勝る点がなにもない。腹が立ってきたので、きっと睨み付けてしまったのだろう。その男は何も言わずに時刻表を取り出し、次の電車の時間を言った。 結局その男がいった電車は、「次の次」の時間だった。窓口を出て改札の上に時間が出ている。連絡がどうなっているのかも知りたかったから窓口にも行ったのだが、結局あと1分で発車という電車に飛び乗った。気分は悪かった。今朝の夢は正夢だったじゃないか。こんなのが未だ居る。 出張での仕事が片付いて帰路に着く。切符を買いに懲りずに(自動販売機が見えなかった)窓口に向かう。行き先を告げると、5秒ほど考え込まれた。なんだか不安を感じる。でも返ってきた答えは、適切な接続の情報だった。急いでホームを駆け上がれば間に合うかもしれないが、と情報をくれる。最短で帰りたいと言えば、指定席になりますが、と私の財布に配慮してくれる。この人、根っからの駅員さんだ。 なんだ、当たり前の駅員さんもいるじゃないか。なんだか嬉しく、気分がいい。そう言えば、電車の中でもこの地域に入ってからの車掌さんの態度が少し違った。車両に入ってくる時の礼の深さが違う。そこまで丁寧にしなくても、と思いつつ、悪い気はしないと感じていた。この地に下りたときの改札のニィちゃんもなんだか笑顔で、「今、ルミナリエやってます、見て行ってやってください」と言ってくれた。なんだか暖かい。あぁこの人はこの街が好きなんだ。何かが伝わってくる。 サイトを見回っているとき、この作り手は商品だけを気に入っているんだな、と感じることがある。それすらない所も多いけれど。でも、市場の買い物などを思い出すとき、商品だけじゃない何かを感じ取っていた気がする。市場そのものが好きだった。その場の持つ雰囲気や、息遣いとも思える何かが好きだった。 あの朝の悪夢を思い出しながら、そういった雰囲気をどうやったら創れるかの答えは出せないが、どうやったら創れないかは見えてくる。好きな者達が本気で集わないで、誰かを惹きこむことはできないのだろう。自分の能力に絶対の自信をもった現場を知らない者たち。自分が良い仕事をすることに誇りを持てない者たち。責任のボールを投げ合って時間をただただ浪費する者たち。多分そんな中からは、何も生まれない。創られた場にも魅力はない。 5年以上前に聞いた話を思い出した。偶然聞いていたラジオでユーミンが人生相談に応じていた。「どうやったら歌手になれますか?」「う~ん、何かになりたいって思っている間は、なれないんじゃないかなぁ。歌が好きで好きでしょうがなくて、ただただ歌っている間にこうなっちゃったんだもの」(うる覚えなので言葉は違うと思います) 能力はともなわないが、Webへの愛着は今年も増した。毎年増している。そういう進行形の状態を幸せだと感じられるようになってきた。 以上。/mitsui ルミナリエ: http://www.kobe-luminarie.jp/ 結局ルミナリエは22:30消灯なので間に合わなかった。

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    コラム No. 24

    圧倒的品質 今まで幾つかのサイト開発に携わってきた。それぞれで、初期構想を詰める段階でその後の「ある流れ」が決まってしまっていた気がする。 単一の部隊で開発を進めるならば、アイデアだしの仕事は分散しないし、複数人で取り掛かっても気心が知れている分だけ、アイデアの収束が早い。しかし、複数部隊(部署や企業)が絡むと、余り容易な道ではなくなる。突き詰めれば、誰がどのようなリーディングをしていくか、誰が皆を引っ張っていくかが、そのプロジェクトの成否の鍵となった気がする。 会社というところでは、そのサイズが大きくなるほど、上の位に就いている人は、取りまとめや意見の交通整理が得意な方が多くなってくる。名采配の名声を持つ人も少なくはないだろう。しかし、私の経験では、その能力は余り重要な評価基準ではない。溢れるほどのアイデアがあって、それを実装する技術力も有り余っているという状況は余りなかったからである。先導する者は、多数の意見をまとめ上げるというよりは、自分でアイデアを出し、向かうべき場所を定め、皆を奮い立たせる者であるべきだ。そうでなければ、サイトは余り上手く育たない。 しかし、実際の権限者は肩書きが上の者に予め決まっているのが通例だし、その座を奪い取るのは並大抵の壁ではない。肩書き上位者の面子がかかっているからである。けれども、名目はともかくとして、実質的なリーダシップを取る方法はある。 今までの経験では、それは最初の打合せのときに、もうそこまで出来ているのかと誰にも言わせるだけの試作を提示することである。動くものに勝るものはない。もちろん幾つかの部分は、改良されるだろうが、大筋を設計する部分を勝ち取ってしまえることがある。自分に割り振られた仕事の領域を超えて作る。インターフェースの担当のはずなのに、データベースのフィールド設計までしてしまう。分業体制など、そのプロトの後に作れば良いと割り切る。必然と担当領域は、当初の予定と異なる。とりあえずヒアリングを、等と悠長な考えで臨んで来るメンバに、圧倒的な品質のプロトを見せ付ける。 過去何度かそのようなことが出来たことがある。それは大変な仕事である。そもそも時間がない、忙しいという大前提の中で、驚くようなプロトを作るのである。しかし、それが出来て、評価された後、仕事の流れは、そうでなかった場合と比べると進みが圧倒的に良い。 このようなプレゼンが出来たとき、幾つか思うことがある。1)デザイナの端くれであって良かった。 2)日頃の鍛錬と日頃の嗜好。 3)このサイトがかわいい。 1)デザイナの端くれであって良かった: 分業体制を敷く場合、幾つかの方法があるだろう。私は、幸か不幸か、何を扱うかという即物的な分け方の部隊にしか所属したことがない。DBを扱うグループ、Webアプリケーションを扱うグループ、インターフェースを扱うグループ。大まかに言って、この3種類に分かれることが殆どだった。その場合、このサイトのエンドユーザの使い方も含めた全体像を分かり易く示せるのは、どう考えてもインターフェース係である。残り2つのチームはそれをやろうと思っても、それぞれの最終目的とするモノの特性から、根本的に難しい。 これは幾つかの問題点を示してもいる。インターフェースからDB構成までの知識。扱うモノを基準としたチーム分けの限界。使われる場面に対する具体的なイメージとそれへの対応。セクショナリズムによる、ユーザのユースケース途中の壁や対立。 2)日頃の鍛錬と日頃の嗜好: うまく行ったプレゼンの背景には、その作ろうとするサイトの方向性が、日頃の自分の嗜好とあっている場合が多い。その分野が好きだからウォッチしている頻度も高いし、色々と言葉にしないまでもアイデアが頭の引き出しに既にある。こうすればもっと良くなるのに、あーすれば使い易くなるのに。但し、同時に溜まっているアイデアを目に見える形にするだけの技術が必要になる。これは、日頃の鍛錬としか言えない。自分なりのアイデアの溜め方に工夫を凝らし、その出し方もグルグルと頭の中を常に回っている。 逆に自分の興味のないモノを扱うサイトには鼻が利かない。でもそれに得意な同僚がいればよい。チーム内の嗜好性の広さが、そのチームのフィールドの幅や深さになる。 3)このサイトがかわいい: 愛着。「千と千尋の神隠し」のインタヴューの中で、宮崎駿監督が言っていた、「千尋が中々かわいくなってくれなくて心配だったが、あるときから千尋がかわいいと思えてきた。それでこの映画はいけると思った」と。自分が手塩をかけて育てたプロトが、実際の技術によって「本物」に実装されていく。なんとも言えないワクワク感がある。そんなとき、その実装版プロトのアクセスログには、私のPCのIPアドレスが上位を占める。よくそんなに見るな、と言われながら、飽きもせずに見つめている。勿論ぼーっと見ている訳ではない。別の仕事をしながら、画面上にはそのサイトを表示するブラウザが必ずいて、ことある毎にクリックする。そこまで惚れ込んだら、余り失敗することはない。何度も見ているうちに、更にアイデアも湧くし、見ている分だけ、自分でテスタになっていて、バグ出しにも貢献している。しかも、画面単位のテスタではない。どう使われるかというユースケースを考えた連結テストをやっている。ついでに、そのサイトが出来上がる頃には、Phase2のアイデアが溜まっていることすらある。 圧倒的な品質で勝負するのは、何もWebの世界だけではない。スポーツの世界でも良く見られることだ。格下が格上に、キチンと勝利するには、圧倒しなければならないことが多々ある。少し上くらいで勝とうなどと思っても、格上には、それなりに有力者がついている。公正な判定を望むことは諦めよう。引き分けではチャンピョンベルトは移動しない。誰の目にも明らかな形で勝負がついたなら、誰にも文句は言われない。そうやって這い上がっていくしかないモノが沢山ある。Webもそうなのかと思う。 社内コンペであるなら、話はそれほど切実ではない。誰が取り仕切ろうと、経済的には、それほど大きな問題ではない。しかし、社外コンペではそうは行かない。自分達の収入に直結して来る。 そうした厳しい競争の中で、全戦全勝に近い仕事をする会社やグループもある。何が違うのか。アウトプットの出し方の方法論が確立しているのだと思う。HTMLのコーディング技術やFlashの作り方等の個々の技術ではない。提案や試作といった総合的なアウトプットを、短時間で形にするノウハウが、組織として蓄積されている。そしてその細やかさが品質に直結している。提案書1つにしても、フォーマットから押さえられている。何かをするときに、何を提出すれば効果的か等は、アイデア出しの人間は考える必要がない。決まっているのだ。ただアイデアの品質に集中でき、集中すべき状況に置かれている。 こうした環境に慣れない者には、窮屈に感じられるかもしれないが、たぶん逆である。情報は、コンテンツ(中身)とフォーマット(見栄え)に分離することで、より高い汎用性を得られる。提案もアイデアと形式とに分離することで、より高い品質を生み出す循環型の環境を作り出せる。 2003年、一部の技術を除いて、Webサイトの構築はかなりコナレて来ていると言えるだろう。そんな中で勝ち残っていくためには、システマティックなワークフローの確立が急務だと思う。Ridualはその駒として生き残れるだろうか。 以上。/mitsui

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    コラム No. 25

    道 青森市から竜飛岬に向かって1/3程度(青森市寄り)の所にある村がある。妻の実家があり年に一度程度そこを訪ねる。目の前が湾に面し、後ろは少しの田畑を経て山々。陽は山側に沈むので日の暮れは早い。養殖だけど採れたてのホタテに醤油をかけてただ焼いて喰らうと生きていることを感謝したくなる。自分の故郷よりも好きになってきている村である。 その田畑の真ん中を整備された道が伸びている。まだ竜飛岬まで全てが整っている訳ではないが、今までの海岸沿いの道に比べたら雲泥の差の運転し易い道ができつつある。行く度に整備されている部分が延びる。青森空港から実家までは年々楽になっている。 その道を想い出して考えた。田畑を貫く新しい道なので、当然ながら脇には余り店がまだない。店は従来の海岸沿いのクネクネした道沿いにある。これまた当然ながらクネクネした道は生活の基盤であり、それぞれの村や町に必要な様々な店が並ぶ。新道路が出来るまで、それらの店は、その地域にとってなくてはならない存在であり、多少の不便があっても利用者から不満という形にはならなかったであろう。先にある竜飛岬やねぶた祭りへの観光客もそれなり足を止めるに違いない。それが、店の品揃えもたたずまいも何も変化しないのに、新道路ができることで何かが変わっていく。 まずは観光客か。クネクネ道を行くドライバにとっては一息入れたくなる場所が、その村のあたりだった。それが綺麗な整備された道になると、その村の辺りでは一息いれなくなる。立ち寄らない。素通りする。もちろん立ち寄るにはその新道路からいったん降りてクネクネ道に入らなければ立ち寄ることもできない。だから多くのドライバは素通りしたことすら意識しないだろう。 そしてご近所さん。遠くまで行くのが億劫だったが故に、近所で済ませていた用件もあるだろう。それが出向く苦労が減ったなら、より派手やかな品揃えの豊富な町に足が向くのは避けられない。偶然かもしれないが、近所の店が混んでいるのを見たことがない。 店自体は何も変わらない。変わらずにその地域の必要性を満たしている。ある意味で絶対的な価値に変化はない。しかし道が整うにつれ、相対的に価値が下がってくる。比較されるのは町中の大きな店である。今までは「競合」ですらなかった異次元の相手であろう。そうこうしているうちに不動だったはずのその店の絶対的価値さえ下がって行く気がする。しかも、その店にとって、その道は「敵」ではなく、自分達の生活を豊かにするものでもある。物の仕入れから情報の入手まで恩恵を受ける場面は多々あるだろう。 生活に根ざすモノの店はまだ良い。観光客等を相手にしている店は、その「素通りしたことすら気がつかない」客にアピールしなければならない。いきおい新道路に広告を立てる。 どこかで見た風景である。ネットが生まれてから、猫も杓子もホームページを作らなければ存在自体がなくなると必死になっていた頃のこのWeb業界である。 どちらが深刻な問題なのかはよく分からない。そこそこの歴史と実績のある企業であるなら急激な津波に呑まれることはないだろう。しかし個人商店は一夏で空家同然になる。そうした店の企業努力は凄まじい。青森の話ではないが、オフィスの周りにも車の移動パン屋さん等が増えてきている。どう見てもそれまでパン焼きオーブンの前にしかいた事がないだろうオジさんが一生懸命味をアピールしている。今までの自分のポストなんて関係ない。生き残るための可能性があるなら何でもしなくてはならない。客扱いの下手なオジさん販売員に出会うと、勝手に色々と物語を想像して、勝手に胸が痛くなる。 同時に自分はそれほど必死かと自問する。IT不況は厳然たる事実だけれど、もしかしたら、自分達の知らないうちに少し離れた場所に大きな道が出来ていたりしないだろうか。今までやってきたことに自負を持って頑固に既存の仕事のやり方にしがみついてはいないだろうか。今何か手を打たないと存在自体が消え去るような状況になってはいないだろうか。 IT業界にいる訳だから、単純に道沿いに広告を立てれば良いと言う訳には行かない。販売員のように街頭に出て行ってもしょうがない。IT屋として踏ん張るしかない。パン屋さんだって、そのパンが売れる味があるから街頭に出る意味がある。私(達)が売っているのは技術である。 いつまでも今までのスタイルを通せばよいという状況のほうが珍しいのだろう。立ち止まっていて存続できる方が異常なのだ。この業界に迫りくる新道路は、回線の太さであるかもしれないし、新しいデバイスかもしれない。新しいユーザかもしれない。指をくわえて脇道にたたずんでいては駄目だ。いつの世も必死で先に進んで行った者が輝いてきたのだと思う。厳しい時代こそITやWebが意味ある働きをするものを作り出したい。それでこそ技術だろう。 少し話がずれるが、(北国の)農業は厳しい。春から育てた稲が、夏のほぼ決まった一週間の日照時間と気温が狂うだけで収穫が壊滅的な打撃を受ける。その話を聞いた時、サイトを作りこんだ後、先方の一言でひっくり返るのが史上最大の悲劇のように錯覚していた自分が恥ずかしくなった。実をつけぬ穂が晩夏の風にそよいでいるのを、深いシワを刻んだ義父が哀しそうに見つめている。こういった年季を私はこの業界で刻むことができるのだろうか。泣き言を言っていられないと思わされる。 以上。/mitsui

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    コラム No. 27

    肥えた目 「最近の子供は目が肥えている」。最近朝日新聞のどこかの特集で語られた言葉。語ったのはゲーム業界の方で、何がウケるのか予想が付かないという趣旨だった(確か「学ぶ意欲」という特集だったと思ったんですが、見つけられませんでした)。 でもこの言葉を何度か読み返して、自分の体験も踏まえて考えると、なんとなく違和感があった。そもそも作品は本気で作られているのか、という素朴な疑問がそこにある。ゲームはド素人なのでテレビで考えてみる。 私は1963年生まれ。アニメやプラモの活気のあった時代に育った。余り裕福な家庭ではなかったので、飽きるほどそれらに浸った訳でもなく、その頃の映像には未だにキュンとする。ウルトラマンや仮面ライダーやゴジラなど、その頃のヒーローは未だに心の中では大きな存在だ。子供とテレビを見る時も、平成ウルトラマン3部作なんかは、私の方が真剣に見ていた。 実はここ1年殆どテレビは見ていないのだけれど、少なくとも1年前の状況では、この作品本気で作っているんだろうか、と首をかしげる作品が多々あった。今でもそれなりに人気がある作品でも、戦いの最中に突然「愛」とかいう言葉が唐突に出てきて、それまでの力比べ体力勝負戦がいきなり一見高尚な戦いになったりしたものがあった。それまでのストーリーの流れから見て、余りに場違いな結論。今までは何だったんだ、そんなんで納得できるのかと怒りさえ感じる。一応一緒に見ていたけれど、噴出してしまい、隣で真剣に見ていた子供に悪いので咳でごまかしたりしたものだ。そもそも、キャラクターデザインからして、これって最終稿なのかと疑問に感じるものまである。 もちろんそんな作品ばかりじゃない。平成ウルトラマンは自分と同世代の、昔ウルトラマンに憧れた世代が作ったものに相応しい出来だったし、真剣さがにじみ出ていた。仮面ライダークウガだって、制作スタッフの情熱が画面からほとばしる感があった。所詮怪獣モノだと、ともすると手を抜いてしまうモノに、本当に真剣に取り組んでいる姿が、確かに伝わってきた。ありきたりの答えではない何か、それを考えて台詞にし映像を撮る。見る者に、「こいつら本気でやってる」と思わせる何か。 メフィラス星人やジャミラ、クレージーゴン…目を閉じるまでも無く、当時インパクトがあった話は頭に浮かぶ。それを見て育った同世代が当時の疑問をぶつけてくる。どうしてウルトラマンは1人でなにもかも背負い込んで戦わなければならないのか、人間はただ見ているだけなのか。当時の疑問に最新のCG映像で自分達なりの答えを伝えてくる。奇麗事で何でも済ます大人は卑怯なのか。「でも、奇麗事で済めば一番良いじゃん」とクウガは誰にも真似できない微笑で返す。万人ウケする訳じゃないし、多少空回り的に感じる演出も、荒削りさも感じたけれど、一生懸命なのは伝わってくる。 こんなドラマを見ているとき、我が子達は真剣だ。一所懸命台詞の意味を受け取っている。下の娘などは小1にして、私が選んで見せるビデオでは度々涙を流し、私の手を耐えるようにきつく握る。真剣さは伝わっている。 私はドラマ作りが仕事ではないので分からないことも多いけれど、安直な答えに流されている作品は増えているように感じてならない。同じ答えに至るにしても、怪獣とか荒唐無稽なモノに対する対応にしても、作り手の身を削るような模索を経ているのかはとても大切な要素だ。そしてその苦悩は画面を通じて伝わって行く。 じゃあその子供達の感受性に今と昔の差はあるのだろうか。多分無い。大人が真剣に取り組んでいる姿は、スレ切ってしまっていない限り子供達の心には届いている。今「目が肥えて」いて、見透かされているのは、作り手の安直な逃げの姿勢ではないだろうか。まぁこれ位で良いか、スポンサーの意向もあるしィ、これ以上やってもやんなくてもワカりゃしないよ、このご都合主義の設定でもいいさ。こんな声には私達も昔も今も感じ取れるし、今の子供達もそうだろう。 さてネットである。自分でサイト訪問をしていて惹かれるのは、技術である場合もあるけれど、やはり真剣さじゃないかと思うことが多い。星の数ほどあるサイトには色んなサイトがある。HTML技術的にも、グラフィック技量的にも、全然駄目だと思えても、それでも気になって見に行ってしまうサイトがある。こんなテーマにこんな情熱をかけている。馬鹿にしているのではない。言葉で「馬ッ鹿だよね~」と発したとしても、そうした情熱の矛先を向けられる対象を持っていることに、羨ましさを感じている。「凄い、この人、真剣だ」。それが再度訪問したくなる理由だ。ふとした瞬間、その真剣な未だ見ぬ人が気になる。あのサイトどうしてるかな。だから久々に訪ねて、様々な事情で廃屋になっていたりすると、なんだか気落ちするし、寂しい。誰かの情熱が冷めることが寂しい。もう少し頑張って欲しい、と思ってしまう。 ゲームメーカーが目の肥えた子供達を相手に奮闘するように、サイト開発者もそれ以上に奮起しないと駄目なんだろう。これ位でいいや、これ以上詰めるのはやめよう、これ位で勘弁してよ…。多分そんな言葉は伝達されてしまうのだ。そして、ネットの端っこでまだ見ぬ人が呟く、「あっ、手抜いてる」。 情熱という言葉で全てを語ることはできないだろう。先日自分でこのコラムを読み返して、その青臭さに赤面してしまった。しかし、それでも「人」に惹かれている自分を否定できない。個人サイトであろうと企業サイトであろうと、頑張っている人やチームの姿が、あるいはその影が見えることが魅力に繋がっている。その本人への興味もあるし、その本人に権限委譲している組織にも興味が湧く。そしてそれだけ入れ込んでいる対象物にも自然と興味が高まる。 ウルトラマンの話をもう一つ。平成4作目のコスモス。怪獣との共存という今までに無いテーマに挑んだ意欲作。テーマの掘り下げに物足りなさを感じ、更に最終話直前に主役俳優の誤逮捕のゴタゴタがあって、後味の悪い終わり方をしてしまった作品でもある。そのゴタゴタのさなか、テレビ局は打ち切りを一度は決意する。しかし話の結末を見せろという視聴者の声に押されて、主役俳優の映像を出来る限りカットしたモノを放送した。それを見ながら更に考えさせられた。人類の危機が来て、巨大戦士ウルトラマンが現れて、問題を解決する、というだけではつまらないのだ。苦戦していても、人間が変身するシーンがないだけで、感情移入の度合いが下がる。一人の人間が、もがきながら傷つきながらウルトラマンになって戦うからウルトラシリーズは魅力が溢れるのだと知らされた。結局「人」なんだ。 どんなに堅牢でパフォーマンスの高いシステムをを作り上げても、それは多分便利なだけ。好きとか嫌いとか主観の後押しは少ない。だから、より便利なサイトが出現したら、さっさと移っていける。後ろめたさも無い。それはそのブランドに対する想いが育っていないということだ。人間が変身しないウルトラマンと同じ、ただ便利でありがたい存在。でもそこに知人が居たら、別に本当に会って話せるかどうかは問題ではなくて知っている人、親密感を勝手に抱ける人が居たなら、話は変わってくる。 ネットは中間層を剥ぎ取っていく構造だ。データを手渡しするだけの層を排除して需要と供給の接点を驚くほど接近させる。だから現場は情報発信について多くの権限を持たねば立ち行かなくなる。そしてそれを進めることで、人の姿がネットの端っこの人にも見えてしまう構造を作れる。ハイテク(最新技術)&ハイタッチ(心からのもてなし)。数年前にこの言葉が出たときは、イマイチ手垢まみれで真実味が無かった気がする。でもITバブルも厳しくなってきた今は、原点のように思える。現場に居るのも「人」だし、「肥えた目」で厳しく見てくれるのも「人」である。 以上。/mitsui ps.コスモスは、主演の無実が判明した後、彼が登場する回が全て放映された模様。

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    コラム No. 28

    ER 先日漸く「ER:緊急救命室 VI」を見終えた。シカゴの病院を舞台にした骨太な人間ドラマ。実際には不可能に近いハイレベルな医療技術が主人公達に要求される医療現場において、各人の個性や性(さが)を引きずりながら、自分の出来る限りの努力を尽くす。シリーズ6作目(日本版最新はVII?)。世に充満する不幸や病気に対して、主人公の誰もが革命的に正すために動いている訳ではなく、自分のやれる範囲で精一杯行動し悩む。しかも、主人公達は聖人君主ではない。個性も癖も個人的問題も抱えている。共通するのは、患者を治したいという想いと、簡単には諦めない姿勢。個々人が抱える複数のドラマが一話の枠の中に併走し、見る者に考える暇も与えない構成。 DVDで見たので、日本語で見たり、字幕で見たり、色々な角度からドラマに浸れた。そしてショックを受けた一言にぶつかった。「あなたは病気です」。ERはシリーズが進むにつれて、精神的な病の領域が増えてきている。特に「VI」では、NHKが告知無しに放送を控える程の(しかし見ておかないと話の流れが分からない)話が含まれている。そうした患者に治療を受けるように諭す場面で使われる言葉だ。実は英語では「You need help(あなたは助けが必要です)」という。慣用句であり、深く考えないで使われる言葉だとは思うが、このニュアンスの差に驚いた。 「あなたは病気です」と言われたとき、どこか死亡宣告のような冷たい響きを感じる。「You need help」と言われたとき、そこには「help(支援)」する体制が背後に準備されているイメージを持つ。あなたの必要とする「help」を、私達は充分に提供できます、安心して委ねなさい、というメッセージ。 週末が明けても、「You need help」という言葉が頭から離れない。そして、Webサイトを眺めながら、この言葉が再度浮かんでくる。サイトの構造が全然イケてない。それまでなら「馬鹿じゃないの」と一言で片付けていたのに、「You need help」と呟いてしまう。「駄目」だと烙印を押すだけでは、駄目なんだと気がついた。精神を患う人に自覚症状は無い。自分の状態を正しく判定することは、精神の健全さに依らず難しい問題だ。しかし、何処かに「線」があり、その線を越えた時点で「病気」という領域に入る。それは気付いた人が諭すしかない。それが病気の場合、通常は医者である。ではWebサイトは誰が諭すのだろう。名前にバリエーションはあるが、「Webデザイナ」だろう。 ユーザビリティやアクセシビリティ。漸く日本でも話題になってきている。サイト診断という言葉でくくられる事が多いかとは思うが、アドバイスをするなら、「You need help」的に出していきたいと願う。サイト診断自体についてもいつか触れたいが、今回は作り手や現場を見てみたい。 「help」が必要な状況は、実は作り手の我々の中にも多くある。特定の個人に多く見られる場合もあれば、尊敬する先輩が陥り堕ちていく場合もある。更に、自分自身が陥る場合も充分にある。誰もが自分は大丈夫と言えない症候群を幾つか。 ■「あぁ、そう言うこと?」症候群 誤解に誤解を重ねる症状。出された状況や資料を一見して判断する。そして本当の意味とすり合わせ作業を軽視する。思い込みと実態とが異なると分かったときに発する言葉が名前の由来。しかし、この言葉を口にしながら、実はやはり説明を聞いていなかったりする。自分の理解能力が高いと自己評価している人ほどかかり易く、自覚症状は無い。思い込みと実態との差が無い場合には問題にならないが、単に偶然の上に立つ砂上の楼閣プロジェクトの可能性もある。一部、技術用語の不統一(マスメディア)が遠因という気もしないではない。 ■「とりあえず」症候群 権限者が自分の判断を先伸ばしにするために頻繁に用い、疑問なく使ってしまう言葉が目に見える症状。発注コストという概念と、その「とりあえず」作らされたものにもかかるコストを計算できない能力不足、そして決断できない優柔不断さが有力原因。症例はシステム系にも多々あるが、どちらかというとデザイン系に多いように思われる。デザイン的な方面に限って言えば、語られた画面のイメージを掴むほどサイトを見回っていない経験不足や、その画面が使われる場面や使い手の抱く想いへの想像力不足も大きな原因と見られる。この言葉を発するときに、自分があたかも偉くなったかのような錯覚を覚えてしまうのも、蔓延の原因か。ちなみにエンジニアの世界では、とりあえず作って微調整していく方式は、ある程度チーム人数が増えた段階で「御法度」とされる手法。しっかり設計してしっかり作るのに勝るもの無し。 ■「こんなイメージ、分かります?」症候群 機能的にどのようなモノが必要かはほぼ分かっているのだけれど、「絵」を描くことに躊躇があっていい加減に伝えたがる症状。デザイナが期待しているのは、純粋に「ラフ」であることを理解していない事が発端だと思える。しかし、何ら絵に描かないで何度か設計できたと勘違いしてしまうと、およそ思慮不足な画面「設計」を出してきて、同じ台詞を口にするようになる。きちんと伝えられる形に出来ていないときは、多くの場合実は自分でも整理できていない。また、気配りや勘のいい外注先に当たると、自分で考えることを放棄してしまうことに陥り易い。しかも一旦陥ってしまうと、楽な状況(考えてくれる)から苦しい状況(自分で考える)に戻ることになるので、気の利かん外注だと八つ当たりをする。自分の仕事を見失っている。自己管理の問題か。 ■エクセル症候群 エクセルで資料を作ることだけが目的化している状態。エクセルは優れたソフトだが、どのように見られるかも想定しないでシートが山ほど含まれていたり、一望できないフォーマットにぎっしりと数字が書かれていたり、印刷できないほど横に延々と続くファイルをmail添付で送られてきたら、疑ってもよいだろう。会議の場では、決まって、「ここに書いてありましたよね」と書いた人でないと気がつくはずの無い部分を、さも完全犯罪を阻む証拠のように振りかざす。長大なエクセルを読む時間が惜しいと思う現場への配慮も無い。表形式のそもそものメリットは、問題点や長所などが一目で俯瞰(ふかん)できる情報表示方法であることが理解できていない状態とも言える。この場合エクセルは、事実上「見やすい」ために使われるのではなく、「書きやすい」から使われている。そして、情報はたいてい「見にくい(醜い)」状態で配布される。 ■自分のタスクだけしか見ない症候群 会議の場や現場で、割り振られた自分のタスクの消化率しか頭にない状態。Webシステムが有機的な繋がりでサービスを提供するものである以上、1箇所だけがどんどんと進んでいく状況は考えにくい。初めから突出した先行型を設計していない限り、システム構築の全工程が螺旋状に少しずつベクトルを変えながら上がっていくのが常であろう。さっさと自分だけアガッてしまおうという姿勢はチームワークにも影響する。部分的に完了したために、そこへの再度の修正コストを考えて、更なるステップを思いとどまることもある。また、回りも見ながら先行している本当の優秀タスクとの見分けは現場に居ないと困難。 ■手ぶらで会議症候群 会議に出るのに何も資料を用意しない、会議の場で一言も発しない、自分は評価や判断をする人間であるという宣言にも似た態度、が特徴。会議は意見を交わす場であり、決定を下す場所である。意見を交わすためにはそれなりの準備を何人(なんぴと)たりとも怠ることはできず、決定を下すには烏合の衆よりも少数精鋭である方が効率が良い。語る人間の数倍腕組しているだけの人に囲まれて会議をする場合が時々あるが、さすがに各人の時給計算をしたくなる。往々にして、総額は自分への発注金額より高そうな雰囲気を感じる。この辺りは個々人の改善というよりは、組織的にその大いなる無駄に気がつかない限り改善は難しいと思われる。数年前に会議の長時間化を阻むために座らないで立って行うというアイデア(本)が出されたが、一案かもしれない。現場としては常にヘトヘトなので座りたいが、そうした「令」がでるということは問題意識があるということで、改善の可能性もありそう。 ■資料作らせたい症候群 性悪説に立つならば、不幸な者や苦労している者を眺めていたいという人間の性(さが)に由来する。或いは、そのための作業コストを計算できない能力不足。自分が、時間的にも量的にも質的にも、見れない程の資料を要求する。官の世界で受注額とキングジムの厚さとが比例しているというマコトシヤカな噂から出ている可能性もある。短工期高品質開発のための優先順位がまだ見えてこない過渡期の症状であることを願っている。但し、ドキュメントに関してはエンジニア系の方が進んでいて、良いツールは出てきてはいる。しかし、まだ決定打には至っていない模様。根絶には長期的視野が必要だろう。注意が要るのは、必要な資料は存在するという点。必要な資料を必要なだけ作成し易い環境、作られた資料が閲覧しやすい環境が必要。資料無しで引継ぎされたサイトには、頭を抱えるしかない。 ■「最初から直すべきだと思っていたんだよ」症候群 プロジェクトの背後から襲ってくるような言葉を平気で言える状態。苦労してリリース直前にボスから言われようものなら、会社を去ることを本気で考える言葉。しかし、本人に罪悪感はないらしい。自分は気が付いていたという自慢げな態度を示せることがその自己満足の原因かもしれない。気が付いていて言わないのはチームの一員ではない。つまずくと分かっている石ころを忠告するのがチームメイトである。この難しさはカリスマが先導していて、本当に気が付いていたのに言えない雰囲気がある場合。共に作り上げていくというモラルの形成がキーだろう。 ERで「あなたは病気だ」と言われて、「はいそうですか」と答える人は今のところ出ていない。Webサイト開発の現場で見られる症例も、注意したところで、自覚して自ら改善に励む人も出てこないだろう。でも、「You need help」と言って、一緒に改善に取り組むならば道は開けるかもしれない。慈善事業じゃないんだし、そんなことやっていられないと思うだろう。けれど、それは自分の優先順位の問題かもしれない。サイト開発か自分のプライドか。 それにしても個々人の能力向上も大切だが、組織としてのベクトルや、まとまりが今後ますます重要になってくる気がしている。 以上。/mitsui”I need help”

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    コラム No. 29

    プレゼン プレゼンをする機会が増えてきた。少し前まではPowerPointで資料を作成していたが、最近は意図的に止めてしまった。最近はswf(Flash)のみに近い。 何が嬉しくて、PowerPointから離れるのか。プレゼン時の軽快さと拡大表示機能。そして配布時のソースを渡さない気軽さとファイルサイズ。プレゼン後のオンライン化の容易さ。そして表現力。この4点。 例えば、Ridualで作成したサイトマップをSVGとして出力する。それをIllustratorで開く、図を選択してコピーして、Flashに貼り付ける。それだけでかなり奥まで拡大表示が可能なプレゼン資料が出来上がる。しかも軽い。勿論ベクトル画像である。会場で、全体像を見せた後、右クリックで拡大/全てを表示と切り替えながら要点を説明できる。更に、Flashのパッケージを持っていれば全画面表示が可能なFlashPlayerがついているので、全画面でプレゼンしたり、Ridualのデモをやりながら横にこのswfファイルを表示しておいて、ホワイトボード的な説明ツールにも使える。 私のFlashプレゼン資料の作り方は大きく分けて2つある。1つは本家Flashで作成する方法。もう一つはIllustratorで作成する方法。 1) Flashで作成する方法: 基本的に「シーン」をページ(項目)として作成する。画面の右下に4つのマークを置き、それをボタンとして、次/前のフレーム、次/前のシーンへの4つの方向にマウスクリックとキー操作(←↑↓→)で進めるようにしておく。このActionScriptが少し面倒かもしれないが、一度作ってしまうとあとは流用なので苦労が無い。シーンの順番もいつでも入れ替えられるし結構楽。 2) Illustratorで作成する方法: Illustratorだけで作るのではないが、これはIllustrator使いには楽な方法だと思う。まず、Illustratorで、レイヤーをページと思って作画する。何レイヤーあっても構わない。それを保存する際に、全レイヤーを表示してから、書き出し/swfファイルとして/レイヤーをswfファイルに、とする。9レイヤーを書き出すと、「(aiファイル名)_L(連番:1~9).swf」という9個のファイルが作成される(10レイヤー以上のときは、*_L01.swf…となる)。あとはこの素材をloadMovieでまとめる。Flashで画面上にボタンを配置し、押されるとキャンバス上に配置した画面に、先ほどのswfを表示するようにする。作り込んでいるように感じるが、Illustratorから出されるのが決まったファイル名なので、これも一度flaファイルを作っておくと使い回しが効く。 swfで拡大表示が可能なことを利用すれば、レイヤーを止めてしまうこともできる。広めの画面に場所を区切って情報を配置する。右上が表紙で、その横が目次、とか。そしてその1枚絵をswfにして、プレゼン中に右クリックで拡大し、手のひらツールで移動する。OHPで原稿をずらしていた時代を思い出すが、これも結構オツ。 Illustratorにこだわるのは1点だけ。正確な位置に正確な線幅でオブジェクトが置きたいから。1ピクセルにもこだわりたい。Flashではキャンバスの表示比率によって、線幅も変われば、微調整もイラつく。LiveMotionやFreehandも考えたけれど、手が馴染まなかった。 プレゼン準備には結構時間をかける。社内会議の場でも、配布資料を後で見てくれるとは思っていないからだ。その場でキーとなることは頭に入れて欲しい。そのためにできる限り努力する。だから映像的インパクトは大切にしたい。だらだら文字を書かないし、説明中に一目見て下を向かれても嫌なので、画面を見て説明を聞かないと分からないように工夫する。 何度か大きめのプレゼンを経験してきたが、後で読んで分かる資料を作成すること自体には賛成だが、プレゼンの場でそれ配るのには疑問を持つ。説明の旨さに依存するところが難しいところだけれど、与えられた時間で惹きつけられなかったら、そのプレゼンは失敗に近いのだと思う。その場で資料を読んで欲しくない。聞いて欲しい。積読(つんどく)状態の資料から、後日連絡が来るような経験は殆ど無い。 DECでは資料作成等も含めてほぼ全てのツールが自前で用意されていた。全世界に14万人以上に繋がっている世界ではあったが、今のPC時代から見るとかなり閉じた世界だった。だからDECを辞めて入った会社では全てのツールが私には新しかった。PowerPointもその一つ。効果的なプレゼンが簡単に作れて感動もした。同時に驚かされたのが、配布資料にもなるという点。プレゼン時に見るものと、後でじっくり読むものとが同じであった。しかも、会社同士で正式に渡す資料も24ポイント以上の文字で書かれたpptファイルであったりした。 PowerPointは、優れたツールだと思う。しかし不幸なツールだと思う。誰のPCにも無くてはならないツールとして位置付けられておきながら、その有効な使い方が伝授されてきていない。特に最近の展示会では沈みたくなる溜息が出る映像が多い。私はデザインを専門に学んできたわけではないが、背景の枠線をはみ出して文字を山ほど詰め込んだり、明らかに場違いな色使いをする映像に対して嫌悪感を持つ。人に伝えるためにプレゼンするんだから、そのための最低限のデザインルールは意識すべきだ。でもそれを誰も教えてこなかった、先輩も、ベンダーも。だから、「僕は絵は分からないんだよね」と平気な顔で、Webに落ちている絵をそこら中に貼り付けたプレゼンがまかり通る。PowerPoint君自身ももっと綺麗に使って貰いたがっているだろう。 学ぶこと、知識を得ることの大切さを思い知る。ツール開発よりも、こうした使う側の姿勢制御のほうが余程大変なのだろう。ツールの操作の問題ではない。使う側の心の問題に近い。 先日あるイントラのリニューアルに関わった。改良点を示し、改良後の画面遷移とワークフローをシュミレーションして見せた。自分ではまぁまぁの出来のプレゼンかと思っていた。それが自惚れだと自覚できたのは、実装が少し進んである程度作業が体感できるレベルになってからだった。作業効率アップをリニューアルの目的にしていたのだが、私の読みよりも効率が良かった。私も少し驚いたが、権限者はかなり驚いていた。その驚く様を見て、私が伝えきれていなかったを実感した。今回の開発でこうなるんですよ、と私は再三説明してきたつもりだ。けれど伝わっていなかったのだ。 エンジニア系の権限者に、完成後の「幻(Vision)」を見せること、それも私の仕事だ。それだけではないにしろ、その比重は大きい。データの流れしか見ようとしない者に、ユーザビリティとか使い勝手に関する数値化しにくい効率の部分を見せれてこそ、そのチームは活性化した状態で開発に向き合える。 使い勝手の悪いツールやWebを見ながら、デザイナを幸せにできないエンジニアは二流だと思い続けている。しかし、エンジニアを幸せにできないデザイナも二流なのだろう。反省&精進。 「No Design, No Business」、日経デザインのキャッチコピー。その通り。更に、「No Vision, No Business」かもしれない。沈滞している暇は無い。 以上。/mitsui

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